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仏教を語るnoteを読む側に持ってほしい着眼点、それって原作基準?

このnoteは、仏教を語るnoteを読む側の皆さんに、これを知ってから読むと視野が広がりますよ、と伝える目的で書きました。

仏教は宗教ではなく心理学である、と語る人がいます。
仏教は宗教ではなく哲学である、と語る人がいます。
仏教は神仏を説いていない、と主張をする人もいます。

そうかというと、

仏教は宗教であり
思想・哲学・倫理・道徳・自己啓発・自己鍛錬・瞑想技術ではないし、
神仏は存在し、
その神仏の加護を得て人生を変えていくことが仏教の修行です
と主張するボクのような人もいます。

両者の主張は完全に相反しています。

なぜ、完全に相反する主張が存在してしまうのか?
どちらが本当なのか?
どちらが自分にとって都合が良いか?
自分は、どちらを信じたいか?

このnoteの目的は、読者の側となる皆さんに、これらを考えるための視点、着眼点を提供することです。


そもそも学ぶものを誤っている人が多い

仏教は宗教ではないと語る人たちの主張を読むと

そもそも学ぶものを誤っているから、スタート地点から全部誤っている

という致命的な問題を抱えている人が、結構、存在します。

具体的には大乗経典だけの世界で仏教を語っている場合です。

大乗経典、例えば法華経や、阿弥陀信仰を支える浄土三部経という仏教経典は、お釈迦様の死後、数百年後に、どこかの誰かがお釈迦様の名前で書いた創作経典と呼ばれるもので、お釈迦様が語っていないことをお釈迦様が語ったと書いている仏教経典です。
これは、すでに世界の常識となっている歴史的な事実ですが、日本では義務教育の範囲で学ばない事柄ですので、知らない人が多いです。

ちなみに、この現象を現代日本のアニメ・マンガ・ゲーム文化の言葉で表現すると、

誰かが原作者の名前をかたって作成した二次創作作品

となります。
大乗経典を熱烈に支持する仏教学者さんたちの中には、
歴史的事実は重要ではなく、宗教的真実がそこに存在するかどうかが重要であり、つまり大乗経典にこそ宗教的真実がある
と主張する人が、本当にいます。

これを実例で例えるならば、
ハリウッドが作成した実写版ドラゴンボールにこそ、ドラゴンボールの真実が存在するのであり、鳥山明原作のドラゴンボールは無価値である
と主張するのと同じです。

ハリウッドの実写版ドラゴンボール単体について作品の素晴らしさについて語ったり、逆に酷評をすることは、それ自体は好きにすれば良いでしょう。
でも、鳥山明原作のドラゴンボールを全く知らず、ハリウッドの実写版ドラゴンボールだけを見た人が、ハリウッドの実写版ドラゴンボールだけを基準にして、ドラゴンボール全体のこととして語ったら、「ちょっと待て!」と言いたくなるでしょう。

大乗経典だけの世界で仏教を語る人も、これと同じです。
大乗経典は二次創作作品なのですから、これを以て仏教全体として語るのは、ちょっと待ってね、という話なのです。
単体の良し悪しの問題ではありません。
ここは、しっかりと問題の切り分けをして、理解してほしいところです。

仏教における「原作」は「阿含あごん経」あるいは「パーリー五部」と呼ばれる経典です。
そして「副読本」「解説本」に該当するものとして「アビダルマ」があります
今回のnoteでは仏教の歴史的な経緯等は記載しませんが、インド仏教の中で考え方の相違からくる色々な葛藤や揉め事があって、法華経や浄土三部経といった大乗経典が新しく作られました。
でも、今を生きる現代人にとっては当時の事情はどうでも良くて、仏教を正しく学んでみようと思ったならば「原作」にチャレンジする必要があります。

読者となる皆さんは、仏教を語るnoteを読むとき、

  • この人は「原作」をベースに語っているのだろうか?

  • 「原作」を知らず「二次創作作品」のみを基準に語っているのだろうか?

  • 「原作」と「二次創作作品」の両方を理解して語っているのだろうか?

  • あるいは作者独自の新しい二次創作作品を語っているのだろうか?

ということを、考えながら読めるようになってほしい。
特に否定的な見解、たとえば仏教は宗教ではなくて哲学や心理学であるという文章を読んだときに、一瞬でも良いので、このnoteのことを思い出してほしい。

この作者は、何を基準にして仏教を語っているのだろうか?
と、少し立ち止まって考えてみる。
そうやって考えた結果として、自分が信じたいものを信じてほしいです。

過去のnote

そういえば自分も「原作」を知らないから判断しようと言われてもできないなあ!という人が多いと思います。
そんなあなたへ、仏教の「原作」である阿含経を学ぶための書籍のリンクです。
世の中の阿含経解説の書籍の中には、詩のような文章を並べて、わかったような気になるだけで、実は何を言っているのかよくわからない解説本や翻訳本も出回っています。せっかく読むのであれば、そういうものではなく、実践者による理路整然としたがっつりした解説書を読む機会を持ってほしいです。
下記に紹介する書籍は漢籍原文の阿含経、書き下し文、阿含宗開祖の解説という構成になっています。

上巻

阿含宗開祖がまず最初に知ってほしい「八法十六法」という修行法について書かれた経典がトップバッターとして掲載されています。もしどこかの仏教者が「仏教は自分が瞑想して自分が救われることであり、他者を変えることはできない」と主張していた場合、その説明は完全に誤りであるということを堂々と指摘できる阿含経典です。是非、読んでほしい仏教の本当の教えです。

中巻

「意生身」という、現代の我々が一般的に幽霊と思う存在をお釈迦様がはっきりと認めている経典が掲載されています。お釈迦様は霊魂を説かなかったという一部の人の説明は誤りです。それをこの書籍でご確認いただければ幸いです。

下巻

仏教は道徳・哲学であって、お釈迦様は輪廻転生も死後の存在も認めていないと本気で考えている人は、この本を読んで、今までの自分が何を学んできたのか、改めて考え直してみる機会を持ってほしいです。この書籍は、お釈迦様が認識している輪廻や死生観をテーマにした阿含経典が多く掲載されています。

般若心経

般若心経だって、二次創作作品じゃないか!と言える人は、なかなか鋭いです。それに対するボクの答えは、般若心経は原作補強に成功したスピンオフ作品という理解をすべき、となります。

神仏の存在証明

仏教は神仏を説いていない?
では、このnoteを読んでください。
阪神淡路大震災のときに、神戸周辺に住んでいた阿含宗の正規会員信徒は約1万名で死者数はゼロでしたが、他の宗教教団では死者が数百名に達したところもあるそうです。
神仏は存在せず、よって神仏の加護も存在しないならば、宗教を信じているかどうか、どの教団に属しているのか、そんなことは関係なく、平均的に死者が発生するはずです。統計的に、そうなるはずです。
でも実際には、誤差とは言えないばらつきがある。
神仏が存在しないならば、なぜこのような誤差が発生するのか、科学的、統計的、論理的に説明するチャレンジをしてみてください。
当時の統計数字は、自分で集めてくださいね。
宗教二世と呼ばれる分類に入る若者で、ここまで読んでくれた方は、周囲の年配の会員信徒さんに当時のことを聞いてみましょう。
ちなみに東北の震災のときも、阿含宗会員信徒の死者数はゼロでした。

仏教は心理学ではない

仏教の「原作」で重要な教義教学に、縁起論というものがあります。
あらゆる出来事は、縁によって生じ、縁がなければ結果は生じないという縁起の法則です。
これを知らずに仏教を語る人は、勉強不足ですから、出直しなさいというレベルの基礎知識です。
色々見ていると、自動車に例えて縁起論を語る人が多いようです。ハンドルとかタイヤとかそういう部品が、工場で組み立てられるという「縁」の結果、自動車になるという説明です。どこかに縁起の説明方法のテンプレートがあるのでしょうか?
そして多くの人は、個人、単体のレベルでのみ縁起を語っています。

そのレベルを超えて、自分の意志とは全く関係なく、他者が引き起こした事件事故に巻き込まれてしまうという「縁」によって、自分の人生が狂ってしまう、これもまた縁起論ですよ、心理学や哲学で仏教を語れるとか、甘ったれるな!ということを述べています。

ブッダに至る為の霊的進化プロセス

ブッダはただの人間であって何たら、かんたら、と書いている文章を読んだことがあるかもしれません。
これは典型的な「原作」を全く知らない人の言う事です。
人は、最難関の六道輪廻という世界を脱したあと、シュダオン→シダゴン→アナゴンという霊的進化を遂げて、最後にブッダに到達します。
ただ、この内容は阿含経やパーリー五部を学んでいる人でも、全然理解していない人が多いように思われます。

最後に
タイトルイラストは公開されている観音様の絵柄です。
ボクの文章はどうしても、攻撃的というか、厳しい口調になってしまうので、この優しく絵柄で中和してほしいです・・・

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