Re:本 『しずくのぼうけん』
「まりあてるりこふすか」
「ぼふだんぶてんこ」
作者の名前を声にしては、きゃきゃきゃと笑っていた。それが誰かの名前だという認識もなく、異国の不思議な音として。
今、手元にある絵本よりも、もう少し横長の、すこしグレーがかった水色の絵本だった。表紙には、すました顔の「しずく」が、気障な格好で(と思っていた)くつろいでいる。
「うちだりさこ・やく」続けて訳者の名前を声にする。それはロシアという遠い国のお話を知らせてくれる人だと聞いていた。『てぶくろ』の表紙にいる名前。
ベストセラーの絵本のひとつとして紹介される時、理科の教材的に使われる場面もある。個人的には、絵本に教育機能を持ち込まれるのは苦手だが、この本を好んだ姉もわたしもいわゆる理系の進路をとって、今があるのも事実だ。
でも絵本には、余計な知識も理論もいらないと私は思う。旅の先々で変身していくしずくと、共にいられるのが楽しかった。場面が変わるたびに「わたし」が変わっていける。ドライクリーニングから逃げ、氷になれば岩をはぜる。透明になって天にのぼれば、「ふるんだ、ふるんだ!」とせかされて降りてくる。川を流れて魚と語り、「すいどうとりいれぐち」(これはほとんど恐ろしい怪獣の名前と変わらなかった)から人の住む家にたどりつく。なんてスリリングな旅だろう!
長じて、内田莉莎子さんがどんな言語を日本語にしてくれたのか、と思い至った時にふと気づいた。もしかするとロシア語だったから、わたしたちはこうしてこの本に出会えているのだろうか、と。奥付にあるWarsawという文字は、いつか見たモノクロのドイツ映画で、音楽家ショパン役の青年が激しく鍵盤を叩きながら「ヴァルシャ!」と叫んでいたのとつながった。場面は違うが「プラハの春」は遠い歴史の中にあるのではなく、自分が生まれ育った時代の話。日本人には縁遠い、言語統制された世界を想像する。今なら「すこしググれば」わかることかもしれないが、持てる知識の断片から想像するしかなく、そして事実はわからないまま、妄想に走った。言語の取り合いに翻弄されてきた遠い国。
こどもたちへの読み聞かせに活躍し終えた頃、ボフダン・ブテンコさんの来日がニュースになった(今ググったら2010年、もう10年以上も前だった)。とても失礼ながら「生きてたんだ」というのが最初の感想。そして、遠い国はこんなふうに近くなった。
洗濯物から逃げたしずくは、厳冬の中、軒先のつららに変身する。物語のおしまいの文章を、また違う意味をもって、わたしは音にする。
「はるになったら つららはとけて しずくはまた ぼうけんのたびに でるだろう」