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とある私という清掃員の人生


清掃員になって、もうすぐ10年が経つ。
まもなく私は普通の社会の定年、の上の定年を迎え、職が無くなる。
私は75歳。よく頑張ったものだ。

このビルは何も変わらない。
やることも至って変わらない10年だった。
毎日地下の駐車場の前から箒、モップがけをし、14階まであるビルのエントランスを清掃する。
その中で私はとても興味深く思うことがあった。
それは、人、である。
私に挨拶をしてくる人もいれば、ゴミのような目で見てくる若者もいて、

「あぁ、こうはなりたくないな」

そう言った思いがヒシヒシと伝わる目をしていた。

私が清掃をするビルには、大手と呼ばれる会社が多く入っている。
だから余計、清掃員という職に就く人間を快く思わない者がいるのだろう。
「自分は大手で働いているから」
私を心底軽蔑するあの目。
プライドが慢心に変わってきている、あの目。

私も、昔はあんな目をしていたのだろうか。

私も47までは、立派な会社に勤めるサラリーマンであった。
家庭も持ち、妻も子も大好きだった。
年金もしっかり蓄えており、順風満帆な人生だった。

あの時、までは。

友人が借金を踏み倒し、消えてしまった。
私はその連帯保証人になっていた。
とても信頼していた。そんなことをするような奴では無かったのだ。

友人は写真家を志していた。
「夢を追うためにこの機材が欲しいんだ。
頼む、500万程貸してくれないか」
そう曇りなき眼で私を見つめてきた。
その言葉と目を信じ、私は貸した。
それが間違いであった。

友人は別の場所でも借金を借り、それも踏み倒して消えた。
連帯ではなかったが、いくつか保証人にされていたため、それも支払った。
それでも、まだ足りなかった。

私は、超のつくほどお人好しとよく言われる。
自分ではそうは思っていなかったのだが、あの時をキッカケに自分の生き方を見直そうと思った。

それが原因で、妻と子も出ていってしまったから。

その時から会社でも、友人に騙され借金を踏み倒されて債務を追った馬鹿な人間、として見られるようになり

私は会社を辞することとした。

それからというもの、フリーに暮らそうと思いアルバイトを始めた。
年齢が年齢だったので、清掃系が多かった。
たまに来る若いアルバイトには見下した態度を取られたり、同年齢や年配でも訳あって社会不適合者になった方が多く、仲良くなる事が難しいこともあった。

それでも、やりがいがあって楽しかった。

この会社にきて10年。それもまた色々あったが、私の(というか、友人のだが)借金ももう終わった。

これから私は、第2の人生を歩むのだ。

家に帰り、インスタントのラーメンを作って食べる。
変なとこに入ったのか、酷くむせた。
とても酷く、酷くむせた。

そういえば、最近やけに咳が出るな。
明日は休みだし、少し病院へ行ってみるか。

私はそう思って眠りにつく。

しかしあれは、ただの酷いむせかえりでは無かった。
私は病院で、医師から言われた言葉に愕然とする。

「肺炎を患っている可能性があります。それも、入院が必要かもしれません」

誤嚥性肺炎。我々年配に多く見られる肺炎の種類である。

とりあえず家に帰ることになり、入院の支度をする。

私の人生、幸せだったのだろうか。

私は考える。

妻の携帯にメールを入れた。
届いているかは分からないが、肺炎になってしまったこと、入院する病院、今後のこと。

私はアルバイトを辞め、入院することになった。
75歳。頑張った方だろう?
私は私に言い聞かせて、また元気になる自分の姿を想像した。

だけど悲しいかな。
全然浮かんでこないのだ。

1人の病室で涙が出た。

人生が幸せだったか、否。
私は今も、幸せなのだろうか。

入院してからの面会には、誰も来なかった。
家族もおらず、この歳で仲の良い友人もそんなにいない。

私は、幸せだったのだろうか。

入院して何ヶ月か経った頃、私はもう衰弱しきり、いつヤマが来てもおかしくないと言われていた。

元気になる姿が浮かばないわけだ。
元気になることがないのだから。

酷く咳き込む。

私は幸せだったのだろうか。

止まらない咳。

私の人生、こんなものだったのか。

考えれば考える程咳が酷くなる。
息ができない。
看護師が忙しくなり、医者が飛んでくる。
何を言っているか聞き取れないくらいに私は咳き込んだ。

私も、これで終わりかな。

そう思った時、唯一ハッキリと聞こえた言葉があった。

「お父さん!!!!!!」

入ってきた娘。そして年老いた妻。

「あぁ…あなた…ずっと来れなくてごめんなさいね」

妻はそう言って弱々しくなった私の手を握った。

「お母さんもね、最近まで入院してたの。それで私も付きっきりで…」

喋りたくても、喋れない。頷く私。

「ずっと謝りたかったわ。ごめんなさい。私、あなたが辛い時あなたのこともっとしっかり支えてあげれば良かった」

娘がいたし、仕方がないよ

声にならない思いは空を切って咳の中に消えた。

「お父さん、私ね、もう40になっちゃった。出てった時は、12だったのにね。でもね、実はもう子どもも15なの。会って欲しいな」

そんな前から結婚してたのか。
お相手の方にも会いたいな。

声にならなかったが、私は笑顔になる。

「あなた…私、本当はずっと離婚届出してなかったの。
ごめんなさい」

妻は私の印鑑だけが押された、少し黄ばんだ離婚届を私に見せた。

馬鹿だなぁ、そんなこと、知っていたよ。

私は小さく頷いてみせた。

「お父さん」
「あなた」
「お父さん」
「あなた」

あぁ、なんだよ私。
ちゃんと幸せだったんだよ。

こんなに思われて最期、ちゃんと見送ってもらえている。

今も、昔も幸せだったよ。

涙を流す2人の姿を見て、微笑むと、咳が止んだ。

1つの病室に虚しい機械音が響き渡った。

ただその病室に横たわる仏は、今までの咳が嘘のように、幸せな顔をして眠っていたという。



誰がなんと言おうと、私は、幸せだった。

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