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【映画感想文】なにが勉強をつまらなく感じさせるのか? 教え方ひとつで子どもたちは学ぶ喜びに目覚めるはず! - 『型破りな教室』監督:クリストファー・ザラ

 最近、新宿武蔵野館にばかり行っている。上映前の予告編で気になる作品が次から次へと流れてくるので連鎖が止まらなくなっている。

 そんな中でもメキシコ映画『型破りな教室』はあまり期待していなかった。予告編がいかにも感動的な作りでお決まりのパターンなんだろうなぁって斜に構えていた。

 なのに、なんだか惹かれたのは舞台がメキシコのアメリカ国境沿いの町だというから。しかも、調べたら2011年の実話を基にしているとか。

 いわゆるトランプ政権ができる前、不法入国者の数が増える一方だった頃。国全体の経済を見れば中進国にあたるはずなのに、どうしてメキシコはそんな状態になってしまったのか。一般にグローバリズムと政治腐敗によって格差が拡大し、持てる者と持たざる者が二分されたせいだと言われている。そして、その煽りを受けるのは弱い立場にある子どもなわけで、メキシコにおける教育の実態が垣間見えるかもしれないと興味があった。

 ただ、結果的にこの映画はそんな目的を忘れてしまうほど、ひたすら素晴らしく、最高に面白かった。わたしは今年もたくさんの映画を見てきたけれど、これが一番よかったというか、心に残るものが多かった。

 ひとえに、いま、自分も子どもに物事を教える仕事をしているからなのだと思う。教師ではないけれど、放課後のクラスをいくつか担当している。そのため、この映画みたいに子どもたちに学ぶ喜びを知ってもらわなきゃいけないと己のミッションに気づかされた。

 内容としてはめちゃくちゃシンプル。

 メキシコのアメリカ国境近くにある治安の悪い町にある落ちこぼれ学校。麻薬と殺人が日常となる環境で国から降りてきているはずの設備費は教育委員会のお偉いさんが着服するのが当たり前。避妊や中絶という選択を取らない家庭が多く、子どもたちはヤングケアラーにさせられがち。どうせみんなバカだし、すぐ事件に巻き込まれて死ぬし、教えても無駄だとやる気のない教師たち。

 そこに赴任してきた若い教師(当時30歳)が型破りな授業を実施して、大人たちに見捨てられていた子どもたちの学習意欲を引き出していく。

 まず、テスト勉強は放棄してしまう。なぜならテストはマニュアル通りに教えられていたかをチェックするもので、子どもたちではなく、教師の査定でしかないから。クラスの成績が上がったらボーナスを支給するなんて言っているから、教師が不正をする始末。これじゃあ、誰のための勉強なのかわからない。

 そんじゃダメだと、この若い教師は子どもたちとの対話を重視する。例えば、新学期初日には子どもたちが入ってくるのを先回りして待ちかまえ、答えのないクイズを出題する。

生徒たちが教室に入ると、机と椅子は脇に積まれ、フアレス先生が床の真ん中に座って待ち構えていた。「早く来てくれ、急ぐんだ」恐る恐る近寄ってきた生徒たちに、フアレスは、「これは救命ボートだ、どのボートも乗れる人数は同じ、乗れない人は溺れる、君たちは23人でボートは6つ、さあどうする?」と言う。「幼稚園みたい」「変なの」と言いながらも、次第に生徒たちは協力しながら真剣に考え始めた。

映画『型破りな教室』公式パンフレット3頁

 他にも身近な出来事から様々な疑問を導き出して、哲学や化学の不思議を一緒に考えていく。当然、教師なのに答えられない質問も飛び出してくる。そんなときは正直に、

「先生もわからないんだ。調べてみようか」

と、言ってしまう。そして、子どもたちと協力し、疑問を解決することで知識を得る楽しさを共に満喫する。大人として、勉強は楽しいことなんだとその身で示し続けるのだ。そうすれば、子どもは進んで勉強をするようになる。だって、本来、学ぶってワクワクするようなことなんだもの!

 興味のある分野について、ぐんぐん詳しくなっていく子どもたち。哲学的な問いが好きな子はバスで大学図書館まで行き、背伸びしてジョン・スチュアート・ミルの本を読み始めたことをきっかけに功利主義における中絶の是非を考えるようになる。ギャングに所属している兄の影響で麻薬取引に協力させられていた少年は浮力の原理を知ったことから、壊れたボートを直すエンジニアリングを身につけていく。いつか宇宙飛行士になりたいと密かに願っていた少女は「君たちにはポテンシャルがある!」と断言してくれた先生にはじめて、将来の夢を口にする。

 ただ、そこに現実が壁となって立ち現れる。哲学の楽しさを母親に語って聞かせていると、そろそろ新しい子が生まれるんだし、あなたはお世話をしなきゃいけないんだから、これ以上学校に通わせられないのよと告げられてしまう。勉強のためにギャングを抜けるなんて冗談言ってんじゃねえよとボスに迫られる。鉄屑拾いの娘が宇宙なんて理想を抱いてんじゃねえと父親に怒られる。教育委員会は異端分子を取り除くため、型破りな教師に露骨な圧力をかけてくる。

 もし、これが日本を舞台にした物語だったら、熱血教師が大人たちを説得してまわり、子どもたちの未来は可能性が満ちあふれているんだと感動的な結末が待っているだろう。でも、2010年代のメキシコではそうはいかない。現実があまりに現実過ぎる。

 それこそ、この教師が最初の授業で示したように救命ボートの数が足りていないから、誰かしらが犠牲になる必要があるのだ。全員は救えない。その葛藤が型破りな教師すらを追い詰めていく。

 なぜ大人たちは無気力になってしまうのか。頑張れば頑張るだけ、残酷な月末に自分が関与してしまうからなのかもしれない。

 有名な思考実験であるトロッコ問題において、暴走するトロッコをそのまま進行させたら5人死ぬけれど、あなたがスイッチを切り替えたら1人死ぬだけで済むと言われたとき、なにもしないを選んでしまうのもそのためだ。そうすれば、自分が殺したことにはならないから。

 でも、みんなが罪を避けていたら、社会はどんどんイカれてしまう。未来の子どもたちがどんどん苦しくなっていく。そう考えたら、現状を変えるために罪を背負う覚悟を大人はしなきゃいけないはずで、スクリーンから「お前はどうする?」と問いかけられてような気がした。

 パンフレットによれば、監督はグアテマラで子育てをしていて、学校教育が機能していないことを危惧する中でこの映画のオファーを受けたという。

「私はこの物語の脚本を書いて監督しなければなりません。私には幼い子供がいます。私が住んでいるグアテマラでは、義務教育は6年生で終了し、学校は将来への道ではなく、単純労働の生活が始まる前に耐えるべきものとみなされています。そのような環境では、自分は将来違うことができる、何者かになれるという考えが入り込む余地はありません。あまりに頻繁に起こる悲劇は、子どもたちが好奇心の力や発見の喜びを経験することができず、希望を放棄してしまうからです。子どもたちが子どもでいられない世界があまりにも多いのです」

映画『型破りな教室』公式パンフレット8頁

 そして、出来上がった作品は子どもたちにフォーカスを当てたものになっていた。具体的にはほとんどのシーンでカメラの高さは4フィート(約122cm)に設定し、子どもたちの目線から物語を切り取っていた。

 大人たちの顔はほとんど映らない。肩だけだったり、背中を向けていたり、基本的には目線が揃わない。そんなところに型破りな教師はそのフレームにひょっこりと現れて、自分たちと同じ目線でしゃべってくれる大人の安心感が映像を通して伝わってくるように演出されていた。

 また、ロバート・アルトマンの撮影スタイルを参考にカメラを常に3台回しておくことで、キャストにカメラを意識させない工夫もしたらしい。なので、映画とは思えないほど子どもたちは生き生きと振る舞い、本当に教室を覗いているような臨場感に満ち満ちていた。

 ちなみにこの映画の原作となった実際のお話はWIREDの記事でいまも閲覧することができる。

 この記事は「次のスティーブ・ジョブズは11歳のメキシコ少女だ」という見出しと一緒に紹介され、型破りな教師によって国境沿いの落ちこぼれ校から実力テストで数学全国1位の女の子が生まれたという内容になっている。しかも、彼女だけでなく、クラス全体の成績が向上したというのでどんな教え方をしたのかと注目が集まった。

 映画のモデルとなった教師とその教え子に取材し、彼がTEDでスガタ・ミトラというインドの教育理論家の動画を見て、自己流で実践することに決めた旨を明らかにしていた。

 この動画は日本語字幕がついているので見やすいのだけど、めちゃくちゃ面白い。スガタ・ミトルは優秀な教師ほど優秀かつ問題のない生徒が集まる安全な地域の学校で教えたがり、教育を必要としている子どもたちほど孤立化していく皮肉な状況を示した上で、教師なしで子どもたちが学ぶ仕組みについて提案している。しかも、それはとても簡単な方法。インターネットにつながったパソコンを与えるというだけ。

 当然、子どもたちにとってははじめてのパソコン。だけど、好きに使っていいと言われたら、数ヶ月のうちに文字の入力方法を勝手に覚え、ゲームを勝手にプレイし、ディズニーのサイトにあったプログラム講座でちょっとしたアニメーションを作れるようになっていたというのだ。

 そのことを知った故アーサー・C・クラークから電話がかかってきて、「なにをやっているのか見たい」と頼まれたんだとか。高齢だったクラークを呼び寄せることはできないので、スガタ・ミトラは彼を訪ね、いろいろ説明したという。すると、クラークはこんなことを言ったという。

「子どもたちが興味を抱いたときそこに教育が生まれる」

 パソコンを設置した地域では子どもたちはたいていGoogle検索にはまり始めるという。するとどうなるか。英語力が急速に伸びる。一見するとゲームをやったり、動画を見たり、つまらないことをしているだけなんだけど、ちゃんと学んでいるというのだ。

 ただし、子どもたちだけでは限界があるらしい。なんのためにやっているのかわからなくなると途中でやめてしまうようで、そのとき、教師の存在が重要になってくる。でも、なにかを教える必要はない。子どもたちが勝手に学んだことを聞いて、「すごいね!」とか「なにそれ?」とかリアクションを取るだけでいいのだ。つまり、対話をするということ。

 なんなら、大人は知らない方がいいのかもしれない。子どもたちは大人も知らないことを自分は知っているんだと鼻高々になれるから。そして、学ぶ喜びの原体験って、力でも体格でも経験でも勝てないはずの大人に知識なら勝ち得るのだとわかったときの爽快感だったような気がすると個人的な思い出も蘇ってきた。

 中学生の頃、変な塾に通っていた。めちゃくちゃ月謝が安かったので通っていたのだけど、ボロいアパートの一室にテーブルを並べ、授業ではなく自習形式。基本的に勉強はこっちから聞かなければ教えてくれない上に、聞いても先生が説明するのではなく、その場にいる全員に向かって、

「いまの質問についてわかる人はいる?」

と、尋ねるのだ。すると、部屋にはわたしより上の学年の先輩たちもいるので、

「それ、三平方の定理を使えば簡単ですよ」 

と、一年生のわたしが習っていない範囲の説明をしてくれる。それを聞いているうちになんとなく三平方の定理っていうものがあるんだとわかり、学校の数学の授業でなんとなしに三平方の定理を使ったところ、

「まだ教えてないことをしないでください」
 
と、注意されるみたいなことがよくあった。最初は戸惑っていたけれど、だんだん、自分はもっと先の内容まで理解できる人間なんだと楽しくなってきて、勝手に数検の勉強に取り組み始め、中2で三角関数をほぼほぼマスターし、期末テストで余弦定理を使って学校の先生を驚かすことにワクワクしていた。

 いま思えば生意気だったなぁと思うけど、あのときほど勉強に胸をときめかせていてことはなかったかもしれない。先生よりも詳しくなるって、最高に気持ちがよかった。

 学校のカリキュラム通りに習っていたら、きっと、この快感は味わえなかった。あの塾のいい加減なシステムがよかったのだ。

 スガタ・ミトラはそれを理論的に分析し、再現性を高めることに成功した。TEDの動画で概要を語っただけで、それを見たメキシコの若い教師が実践し、見事に成果を上げるぐらい簡単な方法にまでブラッシュアップした。で、その出来事が映画化され、いま、わたしたちはよりわかりやすく、その手法を知ることができるようになった。

 教師になる人たちはみんな、本当はこういう教育をやりたいんだと思う。なのにシステムがそれを許してくれない。どこかで職業たるもの忙しくなくてはいけないというイメージがあり、子どもたちが主体的に学ぶことをよしとしない風潮が蔓延している。なにも教えないなんて、先生はサボっていると。結果、授業も試験も部活もなにもかも、教師の働きっぷりを審査するためのものになってしまう。でも、それじゃあ、子どもたちが主役じゃなくなっちゃうじゃん!

 教師は脇役でいいのだ。むしろ、脇役がいいのだ。

 メキシコと日本ではあまりにも環境は違い過ぎるけど、そういう核となる部分は変わらないはず。この映画は教育に携わるすべての人にとって、忘れちゃいけない大切な思いと真正面から向き合っていた。




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