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【読書コラム】不倫している人はみんな、自分が不倫をしているとは思っていない - 『不倫論: この生きづらい世界で愛について考えるために』鈴木涼美(著)

 不倫はいけないことである。でも、みんなやっている。有名人、いや、普通の会社員だって、不倫がバレたら社会的地位を失う可能性は高い。家族だって崩壊してしまう。なのに、不倫をしてしまうのはなぜなのだろう。

 元AV女優の作家で、芥川賞候補になったことも話題となった鈴木涼美さんがそういう不倫にまつわる疑問を考えていく『不倫論: この生きづらい世界で愛について考えるために』を読んだ。

 こういう理由で人は不倫をするのだ! と断定的な答えを出すわけではなく、あくまで鈴木涼美さんが感じたことをつれづれなるままに綴っていた。自分の経験はあまり語らず、身近な人たちの不倫経験や小説や映画、ドラマなどで描かれてきた不倫のあり方を参照し、客観的に不倫を捉えようと努めているのが新鮮だった。得てして、不倫を語る人たちは当事者の視点に立ちがちだから。

 というか、普通、不倫の当事者にならない限り、不倫について語ろうなんて思わない。そのリスクを考えれば、やらない方がいいに決まっているから。なのに、してしまった人たち、もしくはサレてしまった人たちは合理性を超えたドラマチックさを味わうわけで、はじめて、物語たい欲求を覚える。秘密にすべきとわかっていながら、お酒を飲んだ勢いで、友だちに「いまの彼氏、既婚者なんだよね……」と話してしまうのはそのためだろう。

 ただ、当事者にとっては唯一無二のはずな不倫物語はおおむね画一的なものばかり。「自分のライフスタイルを維持するためにはこの形がいいの」「夫婦関係が破綻しても一緒に暮らし続けなきゃいけない結婚制度ってなんなんだろうね?」「相手の家族に迷惑をかけるつもりはない」などなど。手垢のつきまくった紋切り型であふれかえる。

 そんな風に書いていくと、他人の不倫なんてつまらないものみたいだけど、週刊誌では有名人の不倫スキャンダルがドル箱コンテンツになり続けているように、わたしたちがそこに面白さを感じているのは間違いない。コメンテーターが賢そうな顔して、

「家庭の問題ですから、こうやって世間が大騒ぎするのはいかがなものか」

 と、良識者ぶったコメントをしたりするけど、むしろお前はそれを騒いでいる側じゃねえかという矛盾を平気で抱えられるぐらいには斜陽産業となった雑誌やテレビを救世主的存在が有名人の不倫なのだ。

 また、有名人に限らず、友だちや知り合いの不倫話にしたって、ありきたりな内容であっても印象的なものが多い。なんなら、あの子の不倫についてみんなで話して盛り上がったりもする。

 他人の不倫って、間違いなくどうでもいいことなのに、どうしてこうも面白いのだろう。言われてみれば不思議だけど、基本的にどうでもいいことだから、そこが注目されることはない。日々、消費され、通り過ぎていくもの。

 鈴木涼美さんはそこにあえてフォーカスを当てていた。

 なるほど、たしかに、と納得感のある解釈がいろいろ載っていた。男性と女性では不倫した後のダメージに非対称性があるという定番の言説から始まって、片方が未婚のとき、既婚者側は相手にも人生があると想像できていないとか、仲のいい友だちほど不倫を止めてくれるから、そのアドバイスを無視して突き進むと孤独にならざるを得ないとか、けっこん踏み込んだことが書かれていた。加えて、サレ妻が夫と長年性的関係を持っていたスナックのママを訴えた結果、これは枕営業なので不倫じゃないという判決が出たなんてエピソードも紹介されていて、日本の司法が不倫をどう捉えているのか、図らずも勉強になった。

 その中でも一番グッときたのは不倫をしている人たちは誰も自分が不倫をしているとは思っていないという指摘だった。

 どういうことか。

 例えば、未婚女性が付き合っている男性が後に既婚者だとわかり、結果的に不倫になってしまうことがよくあるらしい。このとき、その未婚女性は自らの意志で不倫を始めたわけではないので、その恋を不倫として引き受けるのはなかなか難しい。

 あるいは既婚者が道ならぬ恋をする理由として、「妻とはもう何年もしていないから……」と言いがちだけど、その深層心理には夫婦関係が破綻しているので、この恋は実質不倫じゃないという認識があると考えられる。

 また、先に挙げた水商売の関係みたく、金銭のやり取りや仕事上の利益誘導がある場合、セックスをコモディティ化しているだけで不倫じゃないという論理も成立しがち。もちろん、それはそれで問題があるだろって話なんだけど、不倫ではないということが重要。風俗利用も、愛人契約も、パパ活も、ママ活も、枕営業も、権力を用いた性加害も、不倫ではないから既婚者がそれをやっても家族に対して罪はないと本人は信じている。というか、信じることができるとされている。

 もちろん、どれもこじつけ。詭弁もいいところ。ただ、こんな風にあらゆる不倫はいくらでも例外化することができる。本当、ものは言いようだけど、結果的に世の中にはたくさんの不倫が存在しているにもかかわらず、誰もが、自分の場合は特殊なケースで一般的な不倫とはちょっと違うんだよね……と認知を歪め、不倫をしながら他人の不倫は非難するという奇妙な状況が発生している。

 この構造、差別に似ている。以前、読んだ『差別はたいてい悪意のない人がする』を思い出した。

 差別もこの世界のありとあらゆる場所に存在しているにもかかわらず、誰も自分が差別しているとは思っていない。そのため、人から、

「その発言は差別的だよ」

 と、指摘されたら、ついカッとなっていかに自分の発言が差別じゃないか説明してしまう。これは区別なんだか、ネットでは普通に使われている言葉だとか、合理的な思考として妥当な結論なんだとか。ただ、そうやって取り繕わなきゃいけない時点で問題があることは明らか。言い訳に過ぎないのだ。

 結局のところ、人間、自分は正当なんだと信じずにはいられない生き物なのだろう。悪いことをしたくて、悪いことをしているケースはほとんどなくて、大抵は環境がそうさせているに過ぎない。法律に違反したとして、お前は罪を犯したと言われることはあっても、じゃあ、どうすればよかったんだよ? の答えは教えてもらえない。とっくの昔に死んだ知らないジジイが作ったルールに従って、現代社会を生きるのはあまりに無理ゲー。故に我々の逸脱はいつだって受動的な性質を持つ。

 人を殺すのも、詐欺をするのも、横領するのも、差別をするのも、やった本人の中ではそうなるに至る根拠がたしかにある。供述として話を聞いたら、その身勝手さは到底納得のいくものではないかもしれない。でも、本人にとって、わたしたちがどう感じるかなんてどうでもいい。というか、そう感じることができなかったからこそ、こんなことをしてしまったわけなんだもの。

 たぶん、不倫も一緒。現状の社会的コンセンサスとして、しちゃダメなことになっているけれど、わたしはそれに同意したつもりはありませんから! とみんなが不満を持っている。ただ、明治維新以降、歴史に残るような立派なお歴々によって作られた「常識」という名のしがらみは盤石、かつ、屈強で、理論的に太刀打ちなんてできやしない。それならば、ままよとて。好きにやらせてもらいます。

 で、自分は悪いことをしていないという信念を担保に道を踏み外していくのである。

 これを愚かな行為と見るか、勇気ある行為と見るか。意見はいろいろあるだろう。でも、社会と折り合いをつけるのって、いずれにしても理不尽の連続という感覚だけは共有できるのではなかろうか。つまり、不倫の目的は不倫にあらず。リスクが高いとわかっていながら、不倫をせずにはいられない日常のストレス解消にあるのかもしれない。教育虐待を受けた子どもが親を殺すのは、親を殺したかったからではなく、教育虐待から逃れるためであるように。

 不合理な言動の裏側に、本人だけが理解している論理が隠れていると指摘したのは精神科医のR・D・レイン。彼は精神疾患に苦しむ患者の支離滅裂な言葉に耳を傾け、常識とは異なる形だけれど、患者の中では見事に筋が通ってしまった理屈を探ろうとした。そして、その理屈に基づいて、問題解決のアプローチをすることができれば、患者の悩みは解消されるだろうと仮定した。

 その試みは資金不足や地域住民との不和など、様々な要因によって頓挫してしまったようだけど、彼の意志は『好き? 好き? 大好き?』という詩集になって、現代まで引き継がれている。80年代には戸川純が歌い、90年代には『serial experiments lain』というゲームの元ネタとなり、ゼロ年代以降のメンヘラカルチャーの基礎となった。

 ぶっちゃけ、間違っていることを間違っていると言っても仕方がないのだ。そんなの、当たり前なんだから。重要なのは間違いが明白であるにもかかわらず、それでも突き進んでしまう人たちの頭の中でなにが起きているのか。人生の別解を見つけることである。

 教科書通りの解き方ができれば、一応、偏差値の高い大学に入ることはできる。ところが、入試をトップで通過したやつがノーベル賞級の発見ができるかと言ったら、そうではない。むしろ、教科書通りができなくて、オリジナルの別解を駆使し、合格最低点ギリギリで通過したやつの方が革命を起こしてくれるかも。

 たかが不倫。されど不倫。

 やらない方がいいに決まっているからこそ、やってしまう心理は面白い。参考にならないかもしれないが、興味はどんどん湧いてくる。

 仮に、AIが恋をするとしたら、損ばかりの不倫を選ぶことはないだろう。その判断に複雑なアルゴリズムは必要ない。というか、人間だって、それぐらいの計算はできる。できるのにやってしまうのだ。この不合理性こそ人間である。

 経済学最大の失敗は人間を合理的な生き物と想定してしまったことらしい。まさか自らの損する行動をとるやつはいないだろうと思っていたら、現実、多くの人が平気で損する選択をとっていた。

 調べたところ、原因は不安にあるとわかった。人は利益を得る喜びよりも、失う痛みを二倍以上大きく感じる傾向があるんだとか。つまり、臨時収入で一万円をもらった直後、急な出費で五千円を払ったとしたら、損した気持ちになるということ。

 不倫でもなんでも、恋人を失いたくないと必死になる気持ちはよくわかる。同時に、パートナーの不倫が発覚したとき、当たり前に続くと思っていた日常が失われるサレた側の苦痛は計り知れない。なんというか、不倫って全員が不幸になる。

 それでも、不倫を止めることができないのは人間が本質的に孤独だからなのだろう。メディアに出まくり、大金を稼ぎまくり、誰もが羨む相手と結婚した有名人の不倫スキャンダルに我々が魅了されるのは、成功に成功を重ねたような人であっても、未だ孤独なのだとわかる喜びに起因しているような気がする。そこにはザマアミロという嫉妬心もあれば、孤独に苛まれているのは自分だけじゃないとかわる安心感もある。

 西原理恵子さんの『パーマネント野ばら』に大好きなセリフがある。

どんな恋でもないよりましやん

西原理恵子『パーマネント野ばら』より

 田舎の漁村、唯一の美容院「パーマネント野ばら」を舞台にしたヒューマンドラマ。

 不倫に溺れる女たち。かつてヤリマンだった女たち。ジジイのちんこでもいいから咥えないではいられない女たち。みんな、その恋がクソな恋だとわかっている。真っ当な人生を送っている人たちからバカにされることだとわかっている。でも、その恋がなければ生きていけないわたしたちを誰も救ってくれないとしないと知っている。非難する連中は非難するだけ。わたしたちを助けてはくれない。

 だから、クソな恋でもやめるわけにはいかない。その不合理な振る舞いを狂っていると言うなら言えばいい。

なおこ「みっちゃん、わたし狂ってる?」
みっちゃん「そんなんやったら、この町の女はみんな狂っちゅう。へいき。わたしらずーっと、世間様の注文してきた女やってきたんよ。これからは好きにさせてもらおっ」

映画『パーマネント野ばら』より

 改めて、不倫ってなんなんだろうね。




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