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【読書コラム】ゴキブリにまつわるエトセトラ - 『いつかみんなGを殺す』成田名璃子(著)

 タイトルに一目惚れして、本を買うことがある。『いつかみんなGを殺す』もそんな一冊だった。

 舞台は老舗の高級ホテル。特別なイベントを成功させようと頑張る総支配人の前に、黒光りしたGが姿を現す。なんとか穏便に処理しようとするも、グランドシェフやら、ベテランマネージャーやら、新人スタッフやら、常連客やら、怪しげな清掃人やら、有象無象の人々がGGを巡って一悶着。

 映画『グランドホテル』や『有頂天ホテル』を彷彿とさせる傑作群像劇で、最高に面白かった。

 Gって、本当にすごい。これほど遭遇したくないものとして、万人に共通の理解となっている存在はそうそういない。

 子どもの頃、家にGが出たときは心の底からゾッとした。1匹いたら100匹はいるなんて迷信に心を乱され、夜、目を閉じたら耳元をカサカサ、なにかが這いずっているような気配に襲われ、全然、眠れなかったものである。

 大学生になり、一人暮らしを始めた際の心配事もGが出たらどうしようだった。結果、ファーストコンタクトは最悪の形となった。

 友だちを家に呼び、料理を振る舞ったときのこと。天井からぼとり、黒いやつが落っこちてきた。最初、なにが起きているのかわからなかった。目を凝らした友だちがギャーっと叫んだ。

「G! G! G!」

 それは当然の狼狽だった。でも、他人が慌てているのを見ると、なぜか、冷静になってしまうのが人間である。わたしは不思議と余裕綽々な態度で、

「古いアパートだから、屋根裏を住処にしているんだろうね」

 と、淡白に状況を推測し、近くにあった本でGを叩きつぶした。ちなみにそれはナブコフの『ロリータ』だった。いまも我が家の蔵書には薄っすら茶色い染みが残っている。

 以来、なんとなく、Gは大丈夫になってしまった。そして、Gと変な縁ができてしまった。

 青森の知り合いを訪ねたときのこと。雪の積もった道を歩きながら、

「こっちは寒いからGが出ないんですよ」

 と、説明をされた直後、ふと、近くの灯油タンクで触角を動かす黒い塊を見つけてしまった。

「あれ? おかしいなぁ?」

 彼はぶつくさつぶやきながら、わたしに疑いの目を向けていた。

「いやいや。連れてきてないから」

「そうですよね。……そうですよね?」

 他にも名古屋に引っ越した友だちの新居祝いに行ったときも、

「このマンション、綺麗でしょ。消毒とかも徹底的にやっているから、Gの心配もないらしい」

 と、自慢された数分後、買い出しのため玄関を出たら、外廊下をGが闊歩していた。

 一時、まわりから、わたしは「Gの運び屋」あつかいされていた。もちろん、そんなわけはないのだけれど、あまりにもタイミングがあれ過ぎて、胸を張って否定できない自分がいた。

 ただ、みんな、わざわざGの話をしているわけで、内心、Gが出そうだなぁと予感してはいたんだと思う。

 むかし、パペポTVで、笑福亭鶴瓶が口に出したことの逆が起こると話す中で、

「俺、この頃、風邪長いことひいてへんねん、って言った二日後ぐらいに、どっかで聞こえんのやろね。だんだん風邪ひいてくるよ」

 と、実体験を説明していた。これに対し、上岡龍太郎は、

「風邪をひいてないなっちゅうことは心のどこかに、風邪ひきそうだなっちゅう気があるから、その言葉が出んねん」

 と、簡単に謎を解き明かしていた。

 そういえば、うちでGがふってきたときも、安いアパートに友だちを呼んでいる引け目から、わたしは、

「古いけど、Gは出ないんだよ」

 と、事前にアピールしていたような気がする。結局、出るべくして出ているだけなのだろう。

 Gについて、印象的なエピソードがもうひとつある。

 小学二年生のときのこと。家族で近所の中華料理屋でラーメンを食べていると、わたしの箸が見慣れぬ具材をつかみ上げた。すぐさま母は、

「一回、食べるのやめて」

 と、号令。父が店員さんを呼び、激しく苦情を述べたてた。

 要するに、Gが混入していたのである。

 その後、平謝りの店長曰く、海苔の裏に潜んでいたのではないかとのことだった。申し訳ないとお代は0円、デザートに愛玉子をご馳走を出してもらった。

 本来、それで手打ちだったのだろう。でも、7歳の子どもに大人の論理がわかるわけもなく、翌日、学校でその非日常な出来事をおもしろおかしく喧伝してしまった。

 クラスメイトにウケまくった。不安だったねとか、可哀想だねとか、同情を買うこともできて、けっこう気持ちがよかった。

 しかし、数日後、先生に呼び出され、

「ラーメンにGが入っていた話をするのはやめなさい」

 と、叱られてしまった。なんでも、うちの学校の生徒のお母さんが例の中華料理屋で働いているらしく、その子がえらく悲しんでいるんだとか。

 たちまち血の気が引いたことを覚えている。

 わたしは被害者だから、そのことを好きに語っていたと思っていた。でも、お店だって、わざとGを入れたわけじゃなく(たぶん)、事故でそうやってしまっただけと考えれば、事実とは言え、ネガティブな噂を立てられたら困ってしまうだろう。

 ましてや、そこで働いている人の子どもが身近にいて、実際につらい思いをしているとなったら、客観的に見て、悪者はわたしの方ではないか。

 誰かの悪口を言ったとき、

「事実だから」

 と、胸を張る人がいるけれど、法律上、名誉毀損は事実でも成立するらしい。結局のところ、自己防衛のつもりであっても、誹謗中傷は過剰な攻撃になりやすいということなのだろう。幼心に言葉の難しさを学んだ。

 深夜ラジオをやっている芸人さんは、口癖のように、嫌な思いをしたときはネタにすればいいと言うけれど、たぶん、そう簡単なものではない。

 ストレスを発散することは大切だけど、それが意図せぬ暴力となってしまったら、余計に多くのストレスがふりかかってきてしまう。耐えられるストレスならば、あえて耐え忍ぶことも大切かも。

 以来、わたしは外食で頼んだ料理に髪の毛だったり、虫だったり、入っていたらダメなものが入っていたとしても、大騒ぎはしないように気をつけている。ピュッとどかして食べられそうだったら、そのまま食べる。さすがにキツいと感じたときは、静かに店員さんをお呼びして、申し訳なさそうに交換をお願いしている。

 とはいえ、いまは不満があれば、Googleや食べログの口コミに書いてしまうのがトレンドである。そうやって、衛生観念の低いお店がちゃんとしなきゃと襟もとを正すきっかけになっているかもしれず、わたしのやり方は単なるエゴに過ぎないかもと、少しばかり不安にもなる。

 でも、やっぱり、不特定多数の目に触れる形で問題点を指摘するのは、そのお店に関わる人たちのことを思えば、理屈抜きに忍びない。いまは文句を言う側にいられるけれど、その立場は明日にも逆転するかもしれず、その危うさを考えるに、わたしは誰にも石を投げられない。

 いつかみんなGを殺す。

 この「いつかみんな」という精神は大切だ。そのことを忘れなければ、きっと、お互い様の連続で寛容な社会が実現できる。

 なんてことを期待するのは、めちゃくちゃな楽観だよね。でも、楽観的にいられる世の中を生きていたいから、そう思っちゃうのも仕方がないの。




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