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【映画感想文】セリフはないけど愛嬌たっぷり! 人類がはじめて映画に出会ったときの感動って、これなんだと思う! 奇跡みたいなジョージア映画 - 『ゴンドラ』監督: ファイト・ヘルマー

 セリフのない映画が好きだ。学生時代、自主制作で映画を作っていたときも、わたしはセリフのない作品にしようと頑張っていた。

 でも、試写で意見をもらうとよくわからないと言われてしまうので、泣く泣く、字幕を加えて誤魔化していた。やってみるとわかるんだけど、セリフなしで物語を紡ぐのってめちゃくちゃ難しい。普段、我々がいかに言葉で世界を構成しているのか気付かされる。

 なお、これについては構成主義的情動理論という考え方で説明がつくらしい。わたしたちは感情を言葉にしているようだけど、実は、先に言葉があるという。

 悲しいから悲しいのではなく、悲しみを表す言葉があるから悲しくなる。嬉しいから嬉しいのではなく、喜びを表す言葉があるから嬉しくなるのだ。

 例えば、「ウザい」とか「キモい」とか、なんとなく使っているけれど、具体的になにがどう「ウザい」のか、どういう状態が「キモい」のか説明するのは不可能に近い。でも、その言葉を使うとき、たしかにそういう感覚を持っているのは間違いない。

 なぜ、そんなことが起きるのか。ざっくり理屈をまとめれば、脳が基本的に面倒くさがりで常に思考のショートカットを狙っているからなんだとか。

 ものを考えるってカロリーを大きく消費する行為であり、飽食の時代だと忘れてしまいがちだけど、元来、エネルギー摂取は大変なことだった。そのため、脳は常に節約をしようと頑張っている。そうなると似たような状況に対して、毎回、一から頭を使うのは効率が悪い。

 このとき、言葉がめちゃくちゃ役立つ。嫌なことがあったらぜんぶ「悲しい」と処理すればすごく捗る。反論しなきゃ損する場面では「怒り」対応しておけばうまくいく。いいことがあったら「喜び」を使えば得をする。みたいな感じで、文字通りラベリングから感情が生まれたという仮定が構成主義的情動理論なはず。たぶん。

 逆に言うと、言葉がないと我々は感情を持ち得ないわけで、そりゃ、セリフのない映画が観客に伝えたいことを伝えられないのは当然なのだろう。実際、トーキー(映像と音声が同期した映画方式)が普及する前の作品だって、字幕でセリフを入れたり、活弁士が実況のような形で解説を加えたり、なんらかの形で言葉を使っていた。

 一応、定期的にセリフのない映画が上映され、国際的な賞をとったりもしているけれど、見てみるとピンとこないことはしばしば。なんていうか、セリフを無理やり削っているだけで、セリフありならもっと面白くなるのになぁと物足りなさを覚えがち。ベターだけど、ベストではないという印象を拭えなかった。

 しかし、どうして、学生時代のわたしはセリフなしの映画にやたらこだわっていたのだろう?

 それはセリフなしの映像こそ人類にとっては映画の原体験であり、その魅力に取り憑かれた人々が様々に技術を発展させた先に現代の映画は存在しているからで、そんな歴史を追求したかったのだ。

 世界初の映画はリュミエール兄弟による『工場の出口』と言われている。ただ、工場で働いている人たちが退社していくだけの映像だけど、無限の情報が含まれている。

 この人たちはまっすぐ家に帰るのかなぁ? どこか遊びに行くのかもしれない。自転車に乗っている人もいる。でっかい犬に引っ張られて、もはや散歩させられているに等しい紳士がコミカル! などなど。

 言葉はないけど、工場から帰るというシンプルなストーリーだけでワクワクできるって、あまりにも凄過ぎる。最初にこれがあったなんて。いやー、映画って本当にいいものですね!

 いつか、そういう映画が発明された瞬間に当時の人たちが味わった感動を体感してみたいと思ってきた。探してもなかなか見つけられなかった。じゃあ、自分で作ってみたいというのがわたしの映画制作のモチベーションだった。

 でも、残念ながら、わたしにはそんな難題をクリアするだけの才能はなかった。まったくうまくできなくて、結果、セリフばかりの説明的な映画を作るようになっていった。もちろん、しっくりはいってなかったけど、そんなもんかと諦めていた。どうせセリフなしの映画なんてできやしないんだと自分を納得させて。

 ところが、先日、幕間に流れた『ゴンドラ』というセリフなし映画の予告編を見て、忘れていた衝動を呼び起こされてしまった。

 これ!

 これだよ、これ、これ!

 理想としていた世界がそこにはあった。

 同じような気持ちになった人が多かったのか、劇場に行くと満席状態で驚いた。ありとあらゆるところに言葉があふれかえっている現代社会でセリフのない映画がこれだけ求められているというのはグッときてしまう。

 そもそも、ジョージア映画というのが珍しい。少なくともわたしはこれまで縁がなかった。でも、公開を祝うお花に書いてあった大使のことはXを通して知っていたので、おお! とテンションが上がった。しかし、改めて、外国の大使が有名になれるんだからネットって凄いと思い知らされる。

 さて、本編は期待通りの内容で心底いいものを見たと満足できた。

 まず、ストーリーはめちゃくちゃシンプル。ジョージアの美しい山にかけられたゴンドラ。オペレーターが必要なんだけど、ベテラン男性が亡くなってしまう。その代わりにやってきた新人の女性がずっと働いている女性とゴンドラがすれ違う一瞬のコミュニケーションを重ねていくというもの。

 最初は敬礼をするぐらいだけど、退屈な仕事ゆえ、ちょっとでも楽しいことをしたくなる。

 片方のプラットフォームにチェスを置き、往復するたび一手ずつ指して遊んだり、コスプレをしてみたり、ゴンドラに様々な加工をしてみたり。この加工がやたら本格的で面白い。バーナーを使って鉄板を貼り付け、船や宇宙船のように演出するのだが、絶対に業務中の隙間時間で不可能過ぎて笑ってしまう。

 どう考えてもぶっ飛んでいる。ただ、ジョージアの綺麗な風景とまったくしゃべらない人々の不思議な雰囲気によって、おとぎ話を見ているような感覚になってくるため、この世界ではそういうものなのだろうと納得できてしまう。

 二人の若い女性たちはさながら妖精のようだった。次第に深い関係になっていくのだけど、その過程もひたすらに美しかった。

 別にどの映像も特別なものではない。どこかで見たことのあるような懐かしい光景が積み重なっている。ただ、セリフがないのでなにをどう見るのも自由なので、そこには無限の情報がある。言語化できないワクワクが胸の中に湧き上がってくる。

 まさに映画の原体験!

 1895年、リュミエール兄弟が『工場の出口』を上映したとき、人々が味わった「なんじゃこりゃ」という最初の感動はきっとこれなのだろう。

 セリフのない映画。

 そのコンセプトがばちっとはまっていた。




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