【映画感想文】健康に狂うためデイヴィッド・リンチの映画を14歳の夏から見続けてきた。それは目覚めたまま見る夢である。デイヴィッド・リンチよ、永遠なれ!
デイヴィッド・リンチが亡くなった。もう新作映画を見ることができないと思うと寂しくて、悲しくて、絶望的な気持ちになったが、ご家族がXにポストした言葉を読んでフフッと笑ってしまった。
なるほど、「穴ではなくドーナツを見続けるんだ」か。この視点の逆転こそがリンチの魅力だよねと改めて好きになってしまった。
14歳の夏、たまたま入った恵比寿ガーデンシネマで『インランド・エンパイア』を見たことで、わたしは映画が好きになり、文学も好きになり、大学ではシュールレアリスムの勉強をするはめになってしまった。
もし、リンチが変な映画を撮っていなければ、わたしの人生は全然違っていただろう。そして、たぶん、その方が幸せだった笑
でも、リンチのおかげで、人生に意味なんてないってことをわたしは早めに知ることができた。だから、受験とか就活とか結婚とか、うっかり真面目に現実を生きそうになるたび、必ずリンチの映画を見るようにしてきた。そうしないと現実が真面目に生きる価値がない世界だってことをつい忘れてしまうから。
リンチの映画は健康に狂うためのサプリメントだ。なにが凄いって、鑑賞後、現実なんかどうでもよくなっちゃうところである。
例えば、『ブルーベルベット』の冒頭、美しい庭にクローズアップしたカメラが地面の下で蠢く蟻たちを映し出すみたいに、目に見えている世界の裏側のグロテスクが意識されるようになり、すべてが白々しく感じられてくる。
華やかそうな人たちも一皮剥けば金やセックス、暴力に狂って自分で自分をコントロールできなくなっている。なのに、わたしたちはそういう人たちを凄いと根拠なく思い込み、ややもすると憧れてしまいがち。『マルホランド・ドライブ』はそうして理想と現実が乖離していくすべてを追体験、わたしももう一人のわたしに出会うことができる。
もう一人のわたし。それがリンチのテーマであり続けた。O・J・シンプソン事件に着想を得た『ロスト・ハイウェイ』ではとんでもないことをしでかすとき、人は別人になってしまうんじゃないかという心理学的なアイディアを文字通り映像化してみせた。比喩ではなく、本当にまったく違う人間に変わってしまうという突拍子もない演出は論理的には破綻している。でも、違和感なく納得できてしまうので半端ない。
リンチの作品はどれも狂ってしまった人たちの見ている世界を再現していた。たぶん、リンチも狂っていたのだろう。ただ、一点、彼が特別だったのは正気の側にちゃんと帰ってくるところ。だから、わたしたちはリンチの映画を見ることで正気のまま狂うことができるのだ。
それはさながら目覚めたまま見る夢のようであり、いわゆる映画を見るという経験とは性質を異にしている。
大学生の頃、わたしは首くくり栲象さんに可愛がって頂いた。栲象さんは自宅の庭に植った椿の木で首をくくるパフォーマンスをしていた方で、意気投合し、いろいろとお世話になった。
栲象さんはよく言っていた。死のギリギリまで近づかなきゃダメなんだ、と。でも、それで死んだらどうしよもない。ちゃんと生きて帰ってこなくっちゃ。首をくくるという活動はそのことを象徴していた。
当時はそんなことは当たり前と思っていたけど、世の中、おかしくなったまま戻って来れない人がいかに多いか。本人としてはいつでもやめられるつもりでいるけど、ずるずる、人間としてダメな行為を続けてしまう。気がつかれば、取り返しのつかない事態になっていたなんて話はごまんとある。
結局のところ、現実ってやつはすごく退屈で、基本的にやり甲斐はない。だけど、そんなはずないと必要以上に期待し過ぎて、なにか楽しいことがあるんじゃないかと甘い言葉に吸い寄せられる。
勉強を頑張れば未来がきっと未来は開けるはず。人脈が広がればお金持ちになれるかも。自分を磨けば誰もが羨む恋人ができるんじゃなかろうか。
これらの欲求は資本主義と合わさって、いわゆる美味しい話という現実を侵食し始める。
「これからはこういう時代になるから、こういう準備をしておくといいよ。こういうことができるかどうかで、生き残れるかどうかが決まってくるからね」
そんな具体的な曖昧トークが至るところで交わされているうち、存在しない希望が共同幻想としてもっともらしい顔をし始める。共同幻想の怖いところは幻想なのに大衆が互いに支え合うことで現実同様に機能すること。本来、それは架空なのだから、共同幻想内で失敗してもなにかが終わるわけじゃない。でも、実際はその失敗で人間は本当に終わり得る。
この恐ろしさとリンチは真正面から向き合った。
映画という虚業の中でうまくいかなかったからと言って、人生、他にも道はいくらだって残っている。なのに、この道しか自分にはないのだと思い込んでしまう危険性が『マルホランド・ドライブ』でも『インランド・エンパイア』でも描かれていた。小さな田舎町は表向き平和でのんびりしているけれど、実際はカジノがあり、売春があり、裏金が動き、都会以上に闇深いものであると『ブルーベルベット』や『ツインピークス』で示してみせた。人間、いつでもどこでも狂えるという不都合な真実を我々に教えてくれた。
でも、リンチはそれだけじゃなかった。「穴ではなくドーナツを見続けるんだ」と言うように、狂気の外にあるものを見せてもくれた。
14歳の夏、わたしが『インラインド・エンパイア』の3時間に及ぶ上映を通してお見舞いされたものがそれだった。長大にして難解な物語でリンチが言いたかったことは、女優と売春婦はどちらも客が望む女を演じるという意味では同じであり、そこに貴賤は存在しない。こんな素晴らしいことって他にないよね! という素朴な発見でしかなかった。
そして、ハリウッドの女優とロシアの売春婦がつながり、彼女たちを抑圧してきた悪夢を打ち倒したとき、この円環はどんどん拡大。そもそも世の中のありとあらゆる職業が誰かの望む人間を演じる行為なわけで、もはや、みんな仲間じゃん! と大団円に向かっていく。
ラスト、ニーナ・シモンの"Sinnerman"が爆音で流れる中、これまで作中に出てきた人物が勢揃いし、エンドクレジットの背景でダンスパーティに興じる様は圧巻にもほどがある。
映画が終わった後、ぼーっとしてしまった。
難解だけどなんかいい。そんでもって、なんてあっけないのだろう。
でも、人生なんてこんなもんで、成功とか幸福とか、世間的に重要とされていることのほとんどはわたしたちが勝手に思い込んでいるだけの概念。現実ではなかったんだと気付かされたとき、なんか、肩の荷が降りてホッとした。
当時、わたしは中学3年生。高校受験に向けて弓道部を引退し、勉強を頑張るぞというタイミングだった。夏休みを無駄にしてはいけない。そんなプレッシャーを感じつつも、一日ぐらい、遊びに行ってもいいだろうと訪れたのが恵比寿ガーデンプレイス。ドラマ『花より男子』で道明寺司(松本潤)と牧野つくし(井上真央)が初デートの待ち合わせをして場所であり、シーズン2でも時計広場は重要なシーンにたびたび登場、ずっと聖地巡礼したかった。
そうしてブラブラしていたら、たまたま敷地内にある恵比寿ガーデンシネマでやっていたのが『インランド・エンパイア』だった。
もちろん、デイヴィッド・リンチなんて名前も知らなかった。ミニシアターにも行った経験もなかった。ただ、ポスターのローラ・ダンを見て、『ジュラシック・パーク』の人だと思ったのと、劇場の雰囲気がオシャレだったので、なんとなくチケットを購入してしまった。
だから、心の準備なしに浴びせられたリンチワールドの衝撃と言ったら。大袈裟でなく人生観が変わってしまった。
そのときの切実な問題意識で言えば、なんのために受験をするのか、本気で考えるようになった。それまでは少しでも偏差値の高い学校に行けば、少しでもいい大学に行くことができて、少しでもいい就職をし、成功と幸福を手に入れやすくなるから、とりあえず勉強を頑張った方がいいぐらいしか思っていなかった。でも、成功も幸福も幻想なのだとしたら、少しでもいいところを目指す必要なんてどこにもなかった。
じゃあ、なんのために勉強するのか?
わたしの結論は勉強のために勉強するだった。勉強が楽しいから勉強するというのが一番自然であり、高校も大学も副次的なものでいいだろう、と。
従って、図書館で勉強するにしても息抜きと称して本を読みまくっていた。ちなみに、運悪く、そのとき手に取ったのが村上春樹の『若い読者のための短編小説案内』で、紹介されている第三の新人の小説を片っ端から読んだせいで文学好きになってしまった。
特に小島信夫の『馬』(新潮文庫『アメリカンスクール』内に収録)という作品が凄くって、妻に対して負い目のある夫の人格がどんどん乖離していくという内容で、めちゃくちゃデイヴィッド・リンチじゃん! と興奮したのをいまでもよく覚えている。
正直、成績なんて上がらなくていいやと覚悟していた。だが、不思議なもので、本を読んでいるだけなのに模試の点数はどんどん伸びていった。まあ、最終的には一般試験ではなく、推薦で合格を頂いたので、あんまり関係なかったんだけどね。
というわけで、高校に入ってからも、そんな調子で勉強のために勉強をし続けた。要するに映画を見て、本を読み、食べたいものを作って食べるという日々を送ったのだが、その後、運良く大学に受かることができた。就活はダメだったし、卒業まで10年かかってしまったけれど、よくわからない仕事で食いつなぐことができ、なんだかんだ、31歳になった現在もわたしは映画を見て、本を読み、食べたいものを作って食べるという日々を送っている。
この生活は成功してもいなければ、幸福でも全然ない。ただ、これでいいのだとデイヴィッド・リンチの映画を見返すたびに納得はしている。
現実はあまりにもろくでもない。普通にやっていたら知らぬ間に狂って帰って来れなくなってしまう。そうならないようにわたしはリンチの映画を定期的に見ている。そうすれば、健康的に狂い、ちゃんと現実という退屈な正気に戻ることができるから。
さようなら、デイヴィッド・リンチ。
新作はもう見れないけれど、その喪失という穴のまわりをぐるりと囲むドーナツをこれからもわたしは見続ける。それでいいよね、いや、それがいいよね。
マシュマロやっています。
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