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【料理エッセイ】入院していた祖母が無事に退院できたのでお祝いをしたよ!

 5月ごろ、祖母が緊急入院したという記事を書いた。

 ずっと脚が痛いと言っていて、整形外科でレントゲンを撮ったけれどなんの問題もないということで、マッサージとか整骨とか鍼灸とか、いろいろ試したけれど効果はなし。そこで、神経に異変があるのかも? と考え、専門の病院を教えてあげたところ、診察と同時に緊急入院が決まった。

 MRIで見たところ、腰のあたりがめちゃくちゃになっていることがわかった。神経が飛び出て、たぶん、それで脚に痛みがあると錯覚しているのだろう、と。

 まさか本当に神経が原因だったとは驚きだった。すぐに手術をしましょうということになった。でも、お医者さんはこれだけでは説明のつかない症状も見られるので、一応、もっと詳しく調べてみるという。

 そしたら、首の骨に先天性の異常があり、老化によって神経が傷つくようになっていることが判明した。だから、まずは首の手術をすることになった。

 怒涛の勢いで、予想もしなかった原因が次々と出てきて、あっという間に手術となってしまった。ありがたいことに成功し、よかった、よかったと思ったのは約四ヶ月前。これですべて解決かと思った。

 でも、そこからが長かった。術後も首は動かしたら危ないということでコルセットをはめられて、一人で歩くことも禁止されていた。見事に痛みは消えたらしいが、ひたすら不便な入院生活が始まってしまった。

 心細そうだったので、頻繁に、お見舞いに行ってあげた。わたしも週に一度は会いに行った。退院の予定はどんなもんかと先生に聞いてみたら、まずは傷口が完全にくっついたことを確認した後、リハビリをするのでけっこう時間がかかるとのことだった。

「なにせ、脚の痛みを我慢して、杖をついて歩いていたみたいですからね。筋肉がほとんどなくなっているんですよ。このままじゃ、一人では歩けません」

 たしかに祖母の脚はえらく細くなっていた。痛みが消えたからと言って、それで終わるわけではなかったのだ。で、6月、7月、8月とリハビリの日々が続いた。

 最初のうちは理学療法士さんや作業療法士さんに支えられながら、ベッドで立ったり座ったりを繰り返していた。ボールをふくらはぎで挟んでみたり、片脚でスクワットしてみたり。あとはカートみたいなやつを押しながら廊下をグルグル歩き回っていた。

 どれもちょっとした動きなのだが、祖母はとてもしんどそうだった。知らぬ間にこれほど衰えてしまっていたとは。別にわたしがどうこうできたわけではないが、もっと早く気づいてあげられなくて、申し訳なさに襲われた。

 その状況を母と共有し、いろいろと話し合った。下手したら、このまま入院生活が相当長くなるかもしれない。退院できたとしても、自力で生活するのは難しいかも。これまで、祖母は一人で暮らしてきたけど、ぶっちゃけ、厳しいんじゃないか? など赤裸々に感じたままを伝えた。

 端的に言えば、母に同居を勧めたのである。うちは父親が失踪しているし、わたしを含め、子どもはみな独立している。実家は賃貸で、母はいまの職場の人間関係に悩み、早く辞めたいと言っていた。そういう一切合切を踏まえれば、母が介護のために祖母と暮らすのは理に適っていると伝えた。

 なお、母も同じことを考えていた。でも、祖母が元気だった頃に同居を提案したところ、嫌がられた経験があったとかで、改めて申し出るのに躊躇しているようだった。

 この辺の事情について、わたしはなんとなく知っていた。以前、祖母から質問されたことがあったのだ。母が同居したがっているみたいだけど、どう思う? と。その声は嫌ってことを暗に含んでいた。

 難しいなぁと感じた。そのときの経験をもとにわたしは『娘帰る』という小説を書いてみた。ちなみに、わたしがnoteを始めたのはこの小説をアップするためだった。なので、もし、よかったら!

 さて、そんなわけで、ちゃんと祖母の意見を確認しなきゃいけないということになった。でも、弱っているときに話すと本音を言えないかもしれない。だから、コルセットがはずれるタイミングを待った。

 だいたい7月の初め頃だろうか。入院している病棟もリハビリ専用のところに移ったところで、母は祖母に同居の件について説明した。なんとか納得してくれた。

 ちょうど、この時期、助成金をもらえるか相談した関係で区の担当者に祖母の様子を見てもらっていた。その結果、要介護2の認定を受けたので、祖母も一人で生きていくのは難しいと感じていたのだろう。

 しかし、これからの復活がすごかった。祖母は朝も昼も夕方も、リハビリに励みまくり、メキメキ体力を取り戻していった。8月の末には支えなしで歩けるようになり、要介護認定は外れることになった。

 喜ばしいと同時に、これなら一人で暮らしたいと言い出しそうで不安だった。母はすでに仕事を辞め、祖母の家の近くで内定をとり、新生活の準備を着実に進めていた。いまさらひっくり返すわけにはいかなかった。

 ただ、そういう「空気を読め」って圧力で祖母の思いをつぶすのはよくない気がした。かと言って、母は直接聞きにくいだろうし……。とどのつまり、わたしが間に入るこしかなかった。

 案の定、祖母は元気になったし、まだ一人で暮らせそうと思っていた。でも、いつまた問題が起きてもおかしくないと不安を覚えてもいるようで、母がそばにいてくれることはありがたいようだ。気がかりなのは親子とはいえ、何十年と離れて暮らしていたことだけ。お互いの習慣も生活リズムも全然異なっている。うまくいかなくなるんじゃないかと恐れていた。

 正直、解決のしようはなかった。80代の祖母ともうすぐ60歳の母。二人は食べたいものも、見たいテレビも、寝起きする時間も違うはず。それがいきなり一緒になるんだから、当然、歪みは生じてしまう。

 とりあえず、わたしが月に一度は家に行くことを約束した。そのときにご飯を食べながら、二人の間を取り持つようにするからね、と。果たして意味があるかはわからないけれど、まずはそれでやってみましょうということになった。

 で、先日、ついに祖母は退院した。平日に暇をしている人間がわたしだけなので、迎えにいった。ずっと病院食だったわけだし、久々にお祝いは祖母の好きなものを揃えてあげたかった。

「なに食べたい?」

「そうねえ。お刺身だね」

 なんでも、病院食ではお刺身が出なかったとかで、早く食べたいと求め続けていたらしい。加えて、魚料理もサワラばかり。マグロやアジといった脂がのった魚に飢えているという。あと、ホタテ。これは祖母の大好物。

 帰り、美味しいと評判の魚屋さんに寄って、マグロとアジを買ってあげた。その他、適当に野菜を準備し、新しい仕事で疲れた母が帰宅次第、三人でささやかな祖母の退院祝いをあげた。

 ビールで乾杯。いつもだったら、わたしたちに「先とって」と言っている祖母が我先に箸をマグロに伸ばしていた。

「美味しいねぇ」

 そして、すぐさまアジへホタテへ忙しかった。祖母にとって、これははじめての入院ではない。大動脈乖離をやったり、ガンをやったり、重めの病気をやってきている。当時も退院をお祝いしたけれど、これほど嬉しそうにご飯を食べてはいなかった。

 それだけ約4ヶ月の入院は堪えたのだろう。なにせ、脚の痛みから突然の首の手術。要介護2の認定を受けながら、いつ退院できるかもわからない中、ずっとリハビリをしていたんだもの。こうして、再びお刺身を食べられるとは。なんてことないことが奇跡のように輝いている。

 珍しく、お皿の上のものがあっという間になくなった。最後に残ったマグロの一切れについて、祖母が、

「食べてもいい?」

 と、聞いてきた。生まれてこの方、孫であるわたしは祖母から「食べちゃって」と最後のひとつは常に譲られてきたので、その一言は衝撃だった。

「うん。もちろん。食べて、食べて」

「ありがとう! ……。あー、美味しい!」

 退院できて、本当によかった。

 



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