【映画感想文】絶望的な多幸感! 90年代のミニシアター系邦画を彷彿とさせる優しい空虚が懐かしい - 『ぼくのお日さま』監督: 奥山大史
予告編を見て、あまりの美しさにすっかり心を奪われてしまった。少年少女が淡々とスケートに励む姿は文句なしに煌めいていた。
全国公開まで待てず、TOHOシネマズシャンテで行われた先行公開に行ってきた。驚いた。90年代の邦画へのリスペクトに満ち満ちていたから。
まず、わかりやすくアスペクト比は4:3のビデオサイズ。セリフがやたら少なくて、吃音がテーマになっていることもあり、ぼそぼそっとなにを言っているのかわかりにくい。このあたりは黒沢清監督や北野武監督などの鬱々としたものを感じさせる。ただ、それだけではなく、飽和した光だったり、間と静寂で逆に語るスタイルなどは岩井俊二監督や青山真治監督を思わせる。しかも、スポーツを取り上げ、男女のコミカルなシーンを入れている点は周防正行監督っぽくもある。
なにが言いたいかというと90年代のあらゆる邦画を取り込んでいるのだ。監督は28歳の奥山大史さん。絶対にどの作品もリアルタイムでは見ていない。それなのに、いや、それだからこそ、当時は異なる方向を目指していた才能あふれる種々様々な映画たちを見事にリミックス、2020年代に新たな才能としてまとめあげているのだろう。
その視点で眺めたとき、『ぼくのお日さま』は出来はあまりに見事過ぎた。あの頃の世紀末に流れてきた絶望的な多幸感がよく再現されていた。
具体的に言えば、主人公は吃音の少年。北海道の田舎町に暮らす彼は野球チームに入っているけど、あまりしっくりはきていない。冬になり、シーズンオフで取り組むアイスホッケーもうまくできず、男子と入れ替わりでフィギアスケートに取り組む女の子に見惚れている。
その女の子を指導している元男子フィギア選手の先生が主人公のまっすぐな視線に気がつき、声をかけ、一緒に練習をしないかと誘う。少年は喜び、めきめきと上達。女の子とアイスダンスのペアを組み、大会に出場するために必要な資格を得るために三人一組、力を合わせていくのだが……。
どう考えても幸せな日々。気の合うメンバーでクローズドな社会を形成し、こんな毎日がずっと続けばいいのなぁと誰もが願っているにもかかわらず、社会の常識に晒されたことですべてが崩壊してしまう。この絶望こそ、あの頃の世紀末に流れていた優しい空虚に違いなく、なんだか懐かしかった。
それを誰よりも早く、かつ、的確に言語化したのはいとうせいこうさんだった。1989年はリリースしたアルバム『MESS/AGE』の一曲『噂だけの世紀末』で、こんなことを歌っている。
バブルの絶頂において、誰もが浮かれる中、冷静さを保っていた人々は終わりの始まりを実感していた。でも、それは別に根拠のあるものではなく、こんな幸せが一生続くなんてあり得ないという肌感覚によるものだった。そして、その違和感が口に出たとき、俺もそう思っていたとばかりに噂は伝播していき、存在しなかった絶望が実態を伴うようになったのがあの世紀末だった。
実際、バブルは崩壊した。世界破滅のイメージはさらにいっそうリアリティを持ち始めた。ぶっ飛んだものならノストラダムスの大予言がブームになったし、理論的には2000年問題に真面目な社会人は戦々恐々とした。オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こし、国家転覆まで狙っていたという事実はあまりに衝撃的だった。宮崎勤や酒鬼薔薇聖斗といったこれまでになかったシリアルキラーの登場も強烈だった。阪神淡路大震災で発展し尽くしたはずの日本がこんなにも脆弱だったのかと明らかになってしまった。
ただ、その割に、メディア業界の調子はよくて、若手を中心に明るく元気な文化が花開きもした。ダウンタウンやウッチャンナンチャンが新しいお笑いを量産しまくった。小室哲哉プロデュースのCDは売れに売れた。ネガティブな空気が蔓延してなるはずなのに、あえて、ポジティブに振る舞う人たちも人気だった。たぶん、そういう現実逃避が必要だったからなのだろう。
タモリさんが『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングで、ゲストに来た小沢健二さんを褒めた有名なエピソードもまた、この文脈で解釈可能なのではないかとわたしは考えている。
それは小沢健二さんの『さよならなんて云えないよ』の一節、
について、このフレーズがいかに凄いかとタモリさんが力説するというものだ。
この回が放送されたのは1996年1月29日のことだという。まだまだ世紀末も世紀末。左へカーブを曲がると、あったはずの光る海が見えないかもしれない。そんな絶望を誰もが薄ら感じている時期だったからこそ、「永遠に続くと思う」と生命を肯定する様が輝いて見えたに違いない。そう。左はカーブを曲がる前のこの瞬間に価値を見出せばいいんだもの。いまを全力で味わうことが永遠につながるというアンビバレントが堪らなく美しい。
映画『ぼくのお日さま』もそういうアンビバレントなものを表現しようとしていた。その試みをまっすぐ受け止めるのであれば、素晴らしいと言わざるを得ない。ただ、難しいのはそれを見ている我々が2020年代に生きているということ。
奥山監督が90年代を相対的に眺め、自由に再編集できてしまうように、わたしたちもまた90年代に対して客観的なところで生きている。もちろん、コロナ禍もあったし、戦争も起きまくっているし、閉塞感そのものは共感できる。ただ、『ぼくはお日さま』で扱っている同性愛に関する偏見について言えば、90年代からだいぶ変化しているので、解像度がずれているように感じた。少なくとも、わたしは少年少女の行く末を阻むための材料として都合よく同性愛の要素を使っているような印象を覚え、好感を持てなかった。
別に問題のある描き方をしているわけではない。寡黙な子どもたちの眼差しと身振りが雄弁で、映画ならではの表現が徹底していただけに、その他のクオリティの高さと比較したときに違和感があったというだけなのだ。
逆説的に言えば、90年代には許されていた優しい空虚さがいまは許されないのかもしれない。かつては雰囲気だけで伝わったものが伝わらなくなっている。作り手の主張が聞きたい。「こういう社会って嫌ですよね」と示すだけでは物足りない。あなたはどういう社会にしていきたいのか? 具体的な指標を示してほしいと思ってしまった。
とはいえ、90年代の邦画が持っていた素晴らしさをリバイバルさせたという点では文句なしに素晴らしい映画だった。これもまたレトロピアの一種なのだろう。
好むと好まざるとにかかわらず、わたしたちは過去に希望を求め始めてしまっている。それがいいことだとは思えないけど、『ぼくはお日さま』を見ながら浸った懐かしさは最高に心地よかった。
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