【読書コラム】自分が犯人だったらと考えるだけで世界は違って見えてくる - 『子どもは「この場所」で襲われる』小宮信夫(著)
SNSで『子どもは「この場所」で襲われる』という本がバズっていた。こういうとき、電子書籍はありがたい。サクッと買えて、サクッと読めた。
タイトル通り、子どもが犯罪被害にあった場所に注目して解説しているだけなんだけど、目から鱗が落ちる事実がたくさん載っていた。
著者の小宮信夫先生は犯罪学者として、日本の防犯教育が「不審者に気をつけろ」と教えている点を問題視していた。言われてみれば当たり前だけど、犯人らしい姿をしている犯人なんているわけがないのだから。
逆に、見た目で判断しろと言われたら、自分たちと姿形が違う人たちを不審者と見做すしかないだろう。でも、子どもたちは学校で差別はよくないと教わってもいる。この矛盾に混乱が生じてしまう。
だいたい、こういう人が犯人と特定できるのであれば、あらゆる犯罪は防ぐことができるわけで、それができていない現実を考えれば、「不審者に気をつけろ」は破綻している。
では、どうすればいいのか?
小宮先生は場所に注目すべきと言っている。犯人に共通点はないけれど、犯罪が起きる場所には共通点がある。具体的には「入りやすくて、見えにくい」場所がヤバいらしく、子どもに限らず、大人もそういう場所を避けることが重要らしい。
例えば、人気の少ない住宅地に緑地化の言い訳っぽく作られた公園なんかはけっこう危ない。歩道橋の上とか、古いデパートによくある奥まった位置のトイレとか、駐車場とかかなりヤバそう。
犯人の視点に立ってみればわかりやすい。動機を想像することは難しいけれど、とにかく子どもをさらうと仮定して、どこで計画を決行するかシミュレーションすることはできるだろう。
そのとき、まず優先しなくてはいけないのは捕まらないということ。目的がなんであれ、普通、捕まるために罪を犯したりしない。してみれば、逃走経路が複数あって、目撃者のいない場所を探すところから犯罪の組み立ては始まるはずだ。
この考え方を犯罪機会論と呼ぶ。環境やシステムに穴があるから、人は罪を犯すことが可能になるという考え方で、その穴を塞いで犯罪が起きる機会を減らすという方法で防犯にアプローチする。
小宮先生曰く、日本では犯罪機会論による防犯意識が未だ知られていないとかで、防げる犯罪が防げていないと現状を危惧されていた。その背景にあるのは犯罪率の低さであり、罪を犯す人を特殊な人物扱いする傾向が強いため、つい動機に注目が集まりやすいんだとか。
これはこれで犯罪原因論と呼ばれるもので、社会学の立場から見れば有意義な活動ではある。貧困が原因で盗難が多発しているとなれば、単に取り締まるだけでなく、政治の力で解決しなくてはいけないとマクロな視点で問題を捉えられるようになるかもしれない。
しかし、それではいま目の前で起きている犯罪を減らすことはできない。犯人の動機なんてどうでもいいから、犯罪被害に遭いたくないというのが大多数の本音であり、だとしたら犯罪機会論を学ぶことはなによりの近道だ。
そうやって、犯行に及びやすいところを探すイメージで街を歩いてみると世界は違って見えてくる。
普段は特に意識することのなかった明るい道であっても、車やバイクで接近しやすいことを考えたら、誘拐や引ったくりには絶好の場所に思えてくる。電車内のドア近くに立っているときも、乗り降りの短い時間にさっとスマホを盗みやすいだろうなぁとイメージできる。
不思議なもので、場所に注目していると犯行手段も自然に湧いてくる。一応、自分は罪なんて犯さないという意識があるので、そういう発想力が豊かになってしまうのは正直、不快。でも、その気になれば罪を犯す機会はそこら中に転がっているとも言えるわけで、それを知らないで生きていたと思うとけっこう恐ろしい。
というか、これまでの防犯ってなんだったんだろう。たしかに「不審者に気をつけろ」と言われても、どうしようもないよね。ぶっちゃけ、「こいつ不審者だ」とわかるときには接触されちゃってるもの。手遅れにもほどがある。
加えて、そういう漠然とした注意喚起が逆手に取られるケースも多いらしい。この本の中でいくつか紹介されていたんだけど、マジかよ……、って苦しくなった。
子どもを誘拐する犯人は子どもたちが「知らない人についていっちゃダメ」と教わっていると知っているから、まず、知っている人になろうとするらしい。何度かすれ違ったり、子どもが話しかけたくなるようなアイテムを駆使したり、そう難しくはないだろう。「知らない人」という定義の曖昧な言葉が逆効果になってしまったとしたら、こんなに切ないことはない。
他にも、とりあえず人通りの多いところだったら安全だろうとわたしたちは思ってしまうけれど、そんな単純じゃないらしい。犯人はまず人通りの多いところでターゲットを物色し、犯行に及びやすい場所まで尾行するんだとか。結局のところ、どんなルートを辿ろうが最終的に罪を犯しやすい場所を通ってしまったら一緒なのだ。
犯人は数打ちゃ当たるの精神でやっている。怨恨ならともかく、そうじゃなければ、絶対にこいつを狙ってやろうとまでは考えない。成功すればラッキー、失敗したら次へ行こうでやっている。
だから、一期一会で不審者扱いされることなど恐れていない。これは罪を犯す側の視点にならなければ、絶対、理解できない心境である。なにせ、ほとんどの人はできるだけ不審者扱いされたくないので、誤解されないように気をつけているんだもの。
むかし、声かけパトロールで空き巣を撃退したというニュースが流れたとき、各地で声かけパトロールが流行ったんだとか。その結果、空き巣は動きやすくなったという。
昼間に堂々と各家のピンポンを押して回って、出なければ侵入。出たら、「声かけパトロールです」と言えば、簡単に誤魔化せる。
後に、地域でそんな活動はしていないと発覚しようが問題はない。なぜなら、犯人はそのことを見越して、二度と同じところを回るつもりはないのだから。
同じことが子ども相手にも起こってしまうかもしれない。最近はちょっとしたことで不審者情報メールが送られてくるようになった。犯人視点で考えれば、当然、逆手に取ろうとするだろう。
これはわたしの予想に過ぎないけれど、たいていの犯罪はゲーム感覚なんじゃないかと疑っている。
万引きも痴漢も横領も殺人も、なにもかも。
ワンチャンやってみただけ。作戦を練り、困難を乗り越え、幸運を味方につけて上手くいったときの喜びが堪らない。逮捕されたのはアンラッキー。次こそは成功させたい。そんな報酬系のバグが犯罪なのではないか、と。
そうだとしたらあまりにも腹立たしく、我々はとてもじゃないけど納得ができない。きっとちゃんとした理由があるのだらうと動機を探りたくなってしまうが、本当のところ、犯人は許し難いほどのアホだったという話に過ぎないような気がしている。
個人的には犯人がどのような言葉で自分の罪を正当化するのか、その精神的な歪みに興味はあるけれど、それはフィクションのようなもので現実社会に応用できるとは思えない。少なくとも、わたしの安全には直接的にはつながらない。
その点、犯罪機会論の観点から危ない場所を見抜けるようになるというのは汎用性がある。特にありがたいのは子どもたちにも理屈で教えられるところ。犯人はこういう風に考え、こういう風に行動するから、こういう場所は危ないという説明ができるのだ。
もし、犯人がゲーム感覚で罪を犯しているんだとしたら、その難易度を上げるだけ上げて、絶対にクリアできないクソゲーにしてやろうじゃないか。
マシュマロやっています。
匿名のメッセージを大募集!
質問、感想、お悩み、
読んでほしい本、
見てほしい映画、
社会に対する憤り、エトセトラ。
ぜひぜひ気楽にお寄せください!!
ブルースカイ始めました。
いまはひたすら孤独で退屈なので、やっている方いたら、ぜひぜひこちらでもつながりましょう!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?