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【映画感想文】メディアはZ世代とか言ってるけどさ、いまの若者は70年代みたいにシラケているのが大多数かも - 『ナミビアの砂漠』監督: 山中瑶子

 話題の映画『ナミビアの砂漠』を見てきた。

 監督の山中瑶子さんは27歳。19歳から20歳にかけて制作した『あみこ』という作品がぴあフィルムフェスティバルの観客賞をとったとか。そして、主演の河合優実さんは23歳。高校生のときに『あみこ』を見て役者を志したらしい。

 あまりに劇的なつながり過ぎて、まるでジャンプの漫画みたい! と胸が熱くなる。そんなドラマチックな二人のタッグで撮られた本作の主人公は東京で暮らす21歳の女の子・カナ。脱毛サロンで働き、歌舞伎町に入り浸り、趣味も将来の夢も特にない。スマホとIQOS中毒で、同棲している彼氏以外にも彼氏がいるって自由人。めちゃくちゃ「いま」っぽい雰囲気なので期待値が高まっていた。

 ただ、実際に鑑賞してみると、この「いま」についての解像度が想像以上に高くて度肝を抜かれた。言ってしまえば、メディアで当たり前のように使われている「Z世代」というくくりがいかに虚構であるかを暴き切っていた。

 テレビやSNSを見ていると、若いコメンテーターがZ世代という肩書きを背負い、カタカナ用語を巧みに駆使し、道徳的な言説を涼しい顔で説きまくっている。英語が話せるのは当たり前。海外の大学で勉強し、世界中に友だちがいるらしく、「いまはこういう時代ですから」と昭和的・平成的な価値観を全否定していく。

 こちらとしては「最近の若い子たちは立派ねえ」と思ってしまうけれど、冷静に考えて、そんな人たちは例外中の例外に決まっている。まず、絶対的な数として、世の中に高学歴は少ない。モデルだったり、インフルエンサーだったりになれるほど容姿に恵まれるケースも少数。起業家だって少数。そもそもメディアで自分の考えを語れている時点で少数中の少数なのだ。

 してみれば、我々がZ世代という言葉でイメージしている価値観というものは若者における少数派で、そうじゃない多数派が本当は存在しているはずなのだ。具体的に言えば、高学歴じゃないし、世界中に友だちはいないし、仕事にやりがいなんて感じられないし、SNSのフォロワーは数十人から数百人という若者が。

 そういうリアルを象徴している職業として、『ナミビアの砂漠』は脱毛サロンスタッフという仕事にフォーカスを当てていた。

 白衣を着て、丁寧な説明をして、テキパキと作業をこなしている姿はいかにもちゃんとしているけれど、美容脱毛に意味がないことをみんな知っている。客としてくるのは高校を卒業したばかりの女の子たち。そんな彼女たちからなけなしの金を得ていく日々の虚しさがよく描かれていた。

 これって、なにも脱毛サロンに限った話ではない。第三次産業が73.4%(2020年の統計データ)を占める現代日本において、ほとんどの仕事は本当に必要なのか怪しいものばかりである。多くの中小企業は助成金を得るために謎の文章を作りまくっているし、大企業もコンサルに丸投げ、誰がなんのために働いているのかよくわからなくなってきている。

 だからこそ、2014年にYouTubeが打ち出した「好きなことで、生きていく」というキャッチコピーは若者の心に刺さった。クリエイターになれば、意味のある仕事ができるんじゃないかと希望を持った。

 そういう意味で、『ナミビアの砂漠』の主人公・カナがもともと同棲している不動産屋勤務の彼氏から、映像クリエイターの彼氏に乗り換える動きというのはいかにも象徴的だった。単純に儲かるとか安定するとか、それだけではダメなのだ。「好きなことで、生きていく」ことでしか、いまや、幸せはあり得ない。

 でも、近づいてみると本当のところがわかってくる。映像クリエイターの彼氏はめちゃくちゃ実家が太くって、いい学校に通っていたから友だちもハイソサエティ。女友だちはみんな清楚で品があるし、男友だちは官僚をやっていたりする。

「こいつ、慶應から東大に学歴ロンダリングしたんだよ」

「印象悪くするようなこと言うなよ。まあ、本当なんだけどさ」

みたいなことを言い合って、楽しそうに笑っているけど、なにが面白いのかよくわからない。慶應すごいじゃん。東大すごいじゃん。官僚って、なにそれ、実在しているんだ。

 彼氏のお母さんと会話する機会があったときも、

「あの子をインターに入れようとしたんだけど、すごく嫌がってね」

 とか、当たり前のように言われて戸惑ってしまう。インター? なにそれ? 不思議そうにしているとお母さんは、

「インターって、インターナショナルスクールのことね」

 と、説明してくれる。へー、それって、そうやって略すんだ……。

 カナはカナで自由に生きてはいるけれど、別に非常識な人間をやっているつもりはなかった。彼氏の両親に会うときはお土産を持っていかなきゃダメだよねとか、鼻ピアスをつけたままだと失礼だよねとか、そういうことはちゃんと考えていた。でも、なんか、想像もしなかった常識をお見舞いされて、わたしの人生ってなんなんだろうって思わざるを得なくなる。

 ただ、カナはそんな彼氏が過去に最低なことをしていた事実を知っている。そんなやつが常識側に立ち、人々に責任を問うような物語をクリエイティブしていることが許せなくなってくる。親ガチャに当たっただけで、なにを偉そうにしてんだよ! って。

 イライラする。好きなはずの彼氏に怒鳴ってしまう。明らかに理不尽なことをしているにもかかわらず、彼氏は配慮ができるから、なぜか「俺が悪かった」と謝ってくる。いやいや、意味わからないから。そんな風に感情をコントロールされたら、それができないわたしはクソってことになるだろうが! 暴力に発展。流石に反撃されるも、彼氏はすぐさま我にかえって謝ってくる。ぎゃー! 死ねー!

 従来、この関係性は男女逆で描かれてきた。社会的な充実感を持てないでいる男が交際相手にひどく当たる。罵倒し、殴り、精神的な追い詰める。対して、女はとりあえず謝る。いわゆる紋切り型だけど、男女が入れ替わることで新しい面白さがあった。

 加えて、このどうしようもなさに対する解決策も斬新でよかった。これまでの映画的な展開で言えば、人生の無意味さに焦った人間は逃亡するか、罪を犯すか、セックスに溺れるのが定番だった。つまり、破滅的な行動に突き進む。でも、カナはそうじゃない。めちゃくちゃになっている自分を俯瞰している部分もあって、これは精神疾患だろうと考えて、医療機関に相談するのだ。

 この心療内科のハードルの低さはめちゃくちゃ「いま」っぽいと思った。わたしも去年、仕事でしんどくなった際、これは精神疾患だろうと考えて、自分であれこれ悩む前に心療内科を予約していた。で、適応障害と診断されて、働かない道を秒速で選んだ。当たり前なことを当たり前にしているつもりだった。でも、会社に診断書を出したとき、めちゃくちゃ驚かれた。嫌がらせをしてきた上司は手のひらを返したように優しく対応してきた。それでわかった。上の世代の人たちは精神疾患を重たいものとして捉えているんだなぁって。

 精神は病むものである。そういう共通理解はわたしより下の世代でもっと広がっているんじゃなかろうか。故に、『ナミビアの砂漠』に出てくる精神科はとても綺麗で、カウンセリングのシーンも悲壮感がまったくなかった。

 なお、このカウンセリングのセリフがめちゃくちゃよかった。ラカンの精神分析を再現しようとしていたのだ。例えば、カウンセラーから、

「人って心の中だけなら、なにを思うのも自由だと思うですね」

 と、言われて、カナは意地悪で、

「じゃあ、ロリコンが頭の中で幼い子どもを犯すのも自由ってことですか?」

 と、尋ね返す。これについて、カウンセラーは答えるのではなく、

「どうして、いま、ロリコンという言葉を使ったんですか?」

 と、クライアントが選んだワードにフォーカスを当てていく。そうして、カナは自分がロリコンという言葉を使った理由を考える中で、過去の経験などを振り返り、どのようにして自らの規範が作られてきたかに向き合い始める。これはまさにラカンのやり方そのものである。

 このあたりの詳細は片岡一竹さんの入門書をご参考に。難解で知られるラカンをびっくりするほどわかりやすく解説してくれているので、興味ある方はぜひぜひ。

 そうやって、カナとカウンセラーの間でラポール(信頼関係)が築かれ、箱庭療養を試みるのだけど、ここからのシーンにこの映画のすべてが詰まっていた。というのも、砂漠に見立てた砂の真ん中に、カナはオアシスとなるような木々のミニチュアを配置するのである。

 そして、カメラはこの木々を写していく。ゆっくりと吸い込まれていき、カナが森の中でキャンプをしている場面に変わる。そして、なぜか、この想像の世界にお隣さんが入ってくるのだ。

 このお隣さん、カナと彼氏がプロレスばりに喧嘩して、100%迷惑な騒音を出しまくっている間もひたすら外国語の勉強に努めているような人物。頑張っているんだなぁとカナは密かに尊敬していた。

 自分の存在価値を見失っているカナの横にお隣さんは座り、ゆっくりと語りかけてくれる。まわりの評価なんてどうだっていいと言わんばかりに、

「大丈夫だよ。百年後には全員死んでるでしょ」

 と、淡々とつぶやく。

 このお隣さんを演じているのが唐田えりかさん! メタ的なキャスティングだけど、最高にしびれる。未だにネット上では東出昌大さんと不倫したことが叩かれ続ける彼女だけど、それでも演じたい気持ちを抑えたくないというエネルギーに満ちあふれていた。

 結局のところ、Z世代を代表するような人たちが口をそろえたように言う「いまはこういう時代ですから」みたいな束縛は窮屈で仕方ないのだ。最先端ぶっているお前らだって、百年後には全員死んでいる。うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ!

 そうやって、しがらみをかなぐり捨てようという姿にこそ、本当の「いま」っぽさがあるように感じた。それはなにも政治的な正しさを求めて戦っているわけでもなく、資本主義的な成功を追いかけているわけでもなく、ただ、純粋に自分の幸せを願う衝動だ。

 ならば、いまの若者は70年代のシラケ世代も呼ばれた若者たちにマインドが似ているのかもしれない。政治の季節だった60年代とバブルの80年代の間、空白の時代を生きる若者たちは個人主義と内向性がその特徴と言われた。たぶん、『ナミビアの砂漠』のアスペクト比が16:9じゃなくて、懐かしいテレビサイズ4:3なのはそのことを反映しているんだと思う。

 最後、中国にいる母親からテレビ電話がかかってくる。劇中、カナのルーツに中国も含まれていることはほんのちょっと明かされてはいたけれど、まさか、そのことが彼女にとっての救いとして現れてくるとは。

 テレビ電話の向こうには親戚がたくさんいて、中国語をまくし立てている。対して、カナはニーハオとティンプトン(意味:聞いてもわからない)の二語しか話せない。それをさっきまで猛烈な喧嘩をしていた彼氏が見守っている。

 わかろうとしてもわかり合えなかった二人が、わからないということを通して、初めて、わかり合えたのかもしれない。

 この場面を通しても、あらゆる正解をわかっている風な顔で社会について物申しているZ世代が若者のリアルじゃないことが伝わってくる。これだけ情報化社会が進み、グローバリズムがいくところまでいき、予想もしない出来事が世界中で毎日のように起きている時代なんだもの。わからない方が当たり前じゃないか。

 こんなにも「いま」を捉えることが難しいということを見事に捉えている映画は他にない。いま見なくちゃもったいない。




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