自由で多様であることの責任をわすれがち
先日、小1の長男を助手席に乗せて車を運転しているとき、ふと、
「最近悩んでるんだよね。仕事のことでさ。
優先順位とか、続けられるかとかね。」
と悩み相談してみたら、
「そういうときは悩むより先にやってみるといいんじゃない。いやだったら別のことをすればいいし、楽しかったら続けてみるといいんじゃない。」
とのこと。ま、まぶしい・・・
ああそうか、なにごとも完璧でなんの心配もない状態にもっていってからはじめたくなるのはわたしの悪い癖だったなと思い出した。
* * *
母の目にまぶしい6歳の息子は、自分の心の機微を感じ取りやすい。繊細であまのじゃくで癇癪もちである。
保育園時代からたいていの「みんなで一緒に」はできないししないけど、今のところ本人は困っていないし、周囲のひとたちに恵まれている。
小学校では支援級に登録している。
息子が通う学校には独立した支援級というものはなくて、子ども一人ひとりにあわせた対応をしてくれるので、いまのところはただ登録していて、ときおりサポートの先生がついてくれるくらい。
そうして、週に一度の集団登校とか、観客がいる前でのダンス・体操・発表などなどにどうしても気が乗らない息子を気にかけてくれる。
「どうしてできないの?」とは聞かない。
「なんでやらないの?」とも聞かない。
「じゃあどうする?」と問うて、いっしょに考えてくれる。
* * *
ところで、今日は、市内の小学校で支援級に登録している子どもたちのみ通常授業をおやすみして、担当の先生たちといっしょにちょっと遠くのおおきな公園へ遊びに行くという行事があった。日頃、
この街の小学校でよかった、
この小学校で幸運だった、
などとこころから口にしていたわたしだったのだが、
しばらく前に学校からこの行事に関するお便りをもらったときにはこころがざわめいた。ぎょっとしつつも、
おやおや、また君ですか?(にやり)
といったくらいに受けとめることができた、と思う。
なんどか出くわしたこの感情は、親のエゴっちゅーやつである。
どうせちっぽけで浅はかなわたしの深層心理は、「うちの息子はほんとうは支援級でのサポートが必要なほどではないんじゃないか」などと思っているのだ。
だから、支援級の子どもたちだけを対象とした行事に参加するということに、あんなにも逡巡した。本人の意向を聞くまえから。
「みんなで一緒に」できないと恥ずかしい、
「みんなで一緒に」できないと社会生活で困った状況になるんじゃないか?
「みんなが一様に」受け入れている規範や水準を超えるよう努力すべき。
というのは、わたし自身が幾重にもしばられてきた倫理である。
わたしもずっと苦しかったのに。
望むと望まざるとにかかわらず地球に生まれ落ちてしまった息子に、産み落とした張本人のわたしがおなじ倫理を強いるのははなはだ傲慢なことだとわかっているのに。
この行事、参加する?
という言葉に息子は「行く!」と即答し、今朝は意気揚々と出発した。わたしは息子の高揚感を目の当たりにして納得して、いそいそと弁当を詰めて送り出した。
* * *
わたしたちは自由で多様で、自由で多様であるだけ、責任を負っている。
なのにわたしは、ほんとうにすきなものだけ選んでいいのだということも、
そのためには他者のすきなもののことも同じように大切にしなければならないということも、すぐに忘れてしまうのだ。
息子たちはいまのところ、わたしにとっていちばん近い他者であって、
ときおりそのことを思い出させてくれる。天使みたいだな、と思う。