摂食障がいの克服299【生きる理由がない:死への決定権】
こんにちは。
恐らくですが、『死にたい』と思っていると、最後の決定権って自分にないと思うんです。
私は、誰かに『おはよう』と言われたら、恐らく『生きていい』と言葉に変換されて、後少し生きてみようかな、そう思える、誰かというのは、主に母か妹だと思う。
一生連絡はないけれど。
今朝起きたのは5時半ごろ。
普通に人が起きだす時間が7時とします。
今は13時です。そう、誰からも連絡がありません。
昔からこうだったわけではありません。
大学のころ一人暮らしだったし、あの頃携帯電話なるものもなかったので。一人で大丈夫だったころは大丈夫だった。仕事を始めてからも。
今、私がここまでの精神状態になっていながらに、母や妹には無視できる存在ということで、毎日死に直結している。これって、何なんでしょうか。かまってちゃんとかじゃない気がする。
もしかしたら、決定的に縁を切ったほうがいい影響なのかもしれない。中途半端に身内が亡くなって会ってしまったから、また話ができるのかもとか期待しているのかもしれない。
人が自分を必要としているかもしれない。
そう思いながら人を蹴落とすってことが私にはできないなー。
もしも、必要とされた場合だけど。
その人の気持ちとか今死にたい気持ちとかやっぱりわかるし。。
とはいえ、蹴落とされてばかりいる人生です。
身内ではない話に移行すると、蹴落とした相手が、誰かを好きでいつもいつも、好きでいる様子を目の当たりにするけど。
そうかー。
この人のことが好きなんだなあ。私も好きだわ、とか思っています。
誰かに委ねた死のボタン。
押されまくってて笑えるのですが、残念ながらまだ生きています。
そう、過食そして増える体重とともに。
何があっても許せない存在とともに。
摂食障がいでは、しっかりと恨むことも大事って聞いた。回復の段階では。
とっくにそういう摂食障がいど真ん中からは回復しているけど、愛情不足からはなかなかです。
『基本的信頼がないから』
え、何それ、って聞かれた。世間では認識も薄いのでしょうか。
10歳の壁です。10歳までに人は人に愛されていると認識されて前に進めます。愛されてる、その基本的信頼がないから、私のようにいつまでも、愛を求めてしまう。
非常にばかなのかあほなのか、わかってるので、英語の勉強しつつ、普通の人のように明日からも生きるけれど。