お茶のミュージアムに行こう!【全国39カ所】
製法の違いで緑茶、ウーロン茶、紅茶に!
お茶のルーツは、紀元前に中国の南西部、雲南省で茶樹(チャノキ)が発見され、各地に広がったという説が有力だ。雲南省はベトナム、ラオス、ミャンマーに接している。
唐(618年~907年)の時代の760年頃、文筆家の陸羽がお茶をテーマにした最古の書物『茶経』を出版。冒頭に「茶は南方の嘉木(立派な木)なり)」と記されており、初期の喫茶は南方で始まったと見られる。
『茶経』は茶の起源、歴史、製造法、喫茶法、製茶道具、喫茶道具、茶の産地などを紹介したお茶の百科全書的な本で、3巻10章で構成。
高度な唐の文明が7世紀から8世紀に中国周辺地域(朝鮮半島、日本、東南アジア)に伝わりが、喫茶の風習も周辺国に伝播していった。ヨーロッパに喫茶の習慣が伝わるのは17世紀で、アジアよりも1000年も遅い。
オランダの東インド会社が1610年、ヨーロッパにお茶を伝えたが、当時は紅茶ではなく緑茶だった。平戸で買った日本茶や、マカオでポルトガル人から買った中国茶が西洋にもたらされた。
中国の半発酵茶(ウーロン茶など)がヨーロッパで人気になり、お茶製造業者が発酵を進めている中で完全発酵である紅茶が生まれたと言われ、現在、この説が有力。万病に効く東洋の秘薬として、1657年、イギリスに紅茶が初めて伝わった。
ヨーロッパの硬水で緑茶を入れると味わいが弱くなり、タンニン(タンパク質などと反応し、強く結合する水溶性化合物)の含有量が多い紅茶(発酵茶)は硬水で美味しさが引き立ち、人気が高まっていく。17世紀後半には「午後の茶」(アフタヌーン・ティー)の習慣が定着し、お茶の多くは中国から入ってきた。
インドで新種の茶樹のアッサム種が発見されたのは1823年で、インドからイギリスに紅茶が出荷されたのは1839年頃。インドを植民地としていたイギリスはインドでの紅茶の生産を模索していた。
スコットランド出身の植物学者で、プラントハンター(食料、香料、薬、繊維などに利用される植物や、観賞用植物の新種を求め世界中を探索する人)のロバート・フォーチュンがアヘン戦争(1840年~1842年)後、イギリスに割譲された香港に派遣された。
植物を収集し、中国人に扮して各地を訪れ、緑茶と紅茶は製法が違うだけで、同じ茶樹(チャノキ)から作られることを発見。植物栽培・運搬用のガラスの容器「ウォードの箱」を用いて、茶の苗や種子を1846年にインドに持ち込んだ。インド北部の西ベンガル州のダージリンで紅茶の栽培、茶製造の指導を行い、1856年に商業ベースに乗る茶園が設立され、紅茶の生産が拡大していく。
お茶は発酵の度合いにより、緑茶(煎茶、玉露、ほうじ茶、抹茶など)、中国茶(烏龍茶、プーアール茶など)、紅茶に分けられ、現在、世界で最も多く消費されているのは紅茶。緑茶は発酵をほとんどしておらず、茶葉本来の緑色や香り、旨味を楽しむ。
緑茶が日本で広まるのは平安から鎌倉時代
緑茶、ウーロン茶、紅茶は、すべてツバキ科の常緑樹、チャノキの葉から作られるが、加工方法の違いによって、緑茶、ウーロン茶、紅茶などになる。
緑茶(煎茶)は、蒸す→揉む→乾かす、の工程でできる。
ウーロン茶は、発酵させる(萎れさせる)→炒る→揉む→乾かす。
紅茶は、発酵させる(萎れさせる)→揉む→さらに発酵させる→乾かす。
緑茶(煎茶)の生産地は主に日本で、中国茶(ウーロン茶、プーアール茶など)は中国、台湾、ベトナムで作られ、紅茶の生産量が多いのはインド、スリランカ、ケニアなど。
お茶の葉を摘み取ってすぐに加熱し、発酵(酸化発酵)しないようにして作ったのが緑茶で、完全に発酵させるのが紅茶、その中間に位置するのがウーロン茶などの半発酵茶だ。緑茶で最もポピュラーなのが煎茶で、茎を取り除いた茶葉を蒸して揉み、乾燥させたもの。
玉露は、茶摘みの20日ほど前から、日光を遮るよしず(葦で作られた大きな日除け)などで茶園を覆い、光を遮断して育てた茶葉から作られ、甘みと旨味をより引き出したもの。
ほうじ茶は、煎茶の茎や茶葉を炒って乾燥させたもので、カフェインが少なく、香ばしい香りが特色。焙じるとは水分がなくなるまで熱することで、焙煎は油や水を使わずに食材を加熱乾燥させる方法で、コーヒー豆などナッツや種のような食材を対象に使用される製法だ。
抹茶は、日陰で栽培した茶葉を蒸した後、揉まずに乾燥して石臼で挽いて粉末状にしたもの。
日本に喫茶の風習が伝えられたのは平安時代(794年~1185年)の8世紀から9世紀頃で、遣唐使として中国(唐)に渡った留学僧が、寺院で飲まれていた茶を日本に伝えた。
805(延暦24)年に中国から帰国した最澄が茶の種子を持ち帰り、滋賀県甲賀市信楽町朝宮の岩谷山(現在の仙禅寺一帯)に植えて茶を育てた。815(弘仁6)年に嵯峨天皇が近江国(滋賀県)に行幸(天皇が外出すること)した際、僧の永忠が茶を献じたという記録が残っている。
滋賀県の朝宮周辺で栽培されている緑茶は朝宮茶と呼ばれ、日本五大銘茶の1つ。残りは、宇治茶(京都府)、川根茶(静岡県)、本山茶(静岡県)、狭山茶(埼玉県)。
静岡茶は産地によって細分化されており、川根茶は川根本町、島田市で育てられたもので、降水量が多く、山の斜面で水はけが良い。柔らかい新芽を活かすため、蒸し過ぎず、熱し過ぎず、揉み過ぎない「川根揉みきり流」という製法が明治期に考案され、高い評価を得てきた。
本山茶は、南アルプスに源流がある安倍川上流域の静岡市葵区安倍奥・藁科地区で産出され、山河の恵みを存分にたたえた味と香りに特色がある。
平安時代のお茶は、沸騰した湯に茶葉や茶の粉を入れて煮出す「煎じ茶」で、煮出して飲む方法だった。煎茶法と呼ばれ、現在使われている「煎茶」の概念とは異なり、煮詰めて成分を取り出すスタイル。
嵯峨天皇は大内裏(平安京の宮城)や近江、丹波、播磨などに茶園を作らせ、毎年、茶を献上するよう命じたと記されている。
室町時代後期、お茶は庶民にも広がった
広くお茶が飲まれるようになったのは平安時代末期から鎌倉時代初めの頃だ。300年近く続いた唐が907年に滅亡し、華北・中原を5つの王朝(五代。後梁、後唐、後晋、後漢、後周)が統治し、華中、華南を中心に支配した地方政権(十国)が興亡した五代十国時代を経て、中国を統一した宋(960年~1279年)に日本から修行僧が渡った。
その1人、宋で臨済禅を学んで帰国した明菴栄西(ようさい、とも)が、宋で飲まれていた点茶法によるお茶の飲み方を日本へ伝えた。点茶法とは、粉末の茶を入れた容器に「湯を注ぐ」方法で、現在の「抹茶」の飲み方に近い。
栄西は宋から持ち帰った茶種を、華厳宗中興の祖と称される明恵に送り、明恵は京都の北、栂尾の高山寺に近い深瀬の地に植え、その後、宇治でも茶を育てた。これが、後に宇治茶が高級茶となるきっかけになった。
栄西は、日本で最初の茶の書とされる『喫茶養生記』を1211(承元5)年に著し、宋で見聞した茶の製法や喫茶法を紹介し、茶の効用を説いた。
鎌倉幕府の3代将軍、源実朝に、二日酔いの薬として栄西が茶を献じたことが『吾妻鏡』に記されており、新興勢力の武士層にも茶が広まっていく。
寺院では、平安時代以降、仏教儀礼で「煎じ茶」が使用され続け、鎌倉時代、禅宗寺院では新たに広まった「茶礼」(朝の座禅の後、食後、作務の休憩時、就寝の前などにみんなで茶を飲むこと。茶の湯の原型と言われる)という喫茶儀礼が中国から取り入れられ、日常的に茶を飲んでいた。
寺院とお茶は深く結びつき、各地の寺院で「境内茶園」が営まれ、茶の産地が全国各地に拡大。南北朝時代になると、茶の産地や種類を当てる遊びの「闘茶」が武士や貴族たちの間で流行する。
室町時代に、庶民にも茶は普及。寺社の門前に一服一銭の「小屋掛けの茶屋」(小屋によしずを掛けた粗末な茶屋に縁台と腰掛を置いて、通行人に茶を提供した)ができ、参詣した人に茶を売っていた。行楽地や祭礼で人が集まる場所で茶道具を売る光景が見られるほど、茶は人気の趣味、食習慣となっていた。
3代将軍の足利義満は宇治茶を庇護し、有力大名も宇治に茶園を設けた。義満が宇治に開かせた茶園は宇文字園、川下園、祝園、森園、琵琶園、奥の山園、朝日園の7つで、七名園と呼ばれていた。
「森、祝、宇文字、川下、奥ノ山、朝日につづく琵琶とこそ知れ」
お茶の産地が和歌にも詠まれるほどで、それぞれの茶園が味や香りを競っていた。
安土桃山時代には日光を遮って茶の旨味や甘みを高める被覆栽培(覆下栽培)が始まり、宇治は高級茶の産地としての地位を確立。生葉を蒸した後、揉まずに乾燥させた高級な碾茶に加工された。碾茶とは、抹茶の原料になるお茶を指す。
好みの茶碗や茶釜を作らせた千利休
室町時代の後期、庶民にまでお茶が普及したが、公家や武士らが行う茶会では高価な中国製の道具である「唐物」が珍重され、愛称としての銘を備えた茶碗、茶器、それらを包む布類などの道具は名物と呼ばれていた。
茶道具によって格付けされ、高価な唐物や名物を尊ぶ風潮に対し、15世紀後半に村田珠光(じゅこう、とも)は粗雑中国陶磁器(くすんだ色の青磁が代表的なもので、珠光青磁と呼ばれる)など、侘びた道具を使用する「わび茶」を創始した。
堺の豪商で茶人の武野紹鷗がわび茶を発展させ、千利休がこれを完成させた。千利休は唐物ではなく、国産の茶道具を用い、竹などを花入れに活用することも多い。
自身で道具類をデザインして、楽茶碗(楽焼茶碗のことで、千利休の創意を受けた楽長次郎が始めたとされる)や万代屋釜(茶の湯釜の形状の1つで、肩と腰に2本の筋があり、その間に擂座(半球形の粒が並ぶ文様のこと)がある釜など、利休用の道具を職人に作らせた。華美や装飾性を否定し、簡略化、簡素化が特徴。
利休の時代(戦国時代)、利休が作らせた楽茶碗は粗末な道具とされていた。利休は呂宋壺(フィリピンのルソン島を経由して輸入された中国南部の陶製の壺)や高麗茶碗(朝鮮半島で焼かれた日常雑器を茶碗として用いたもの)などの輸入品も用いたが、多くは雑器扱いの大量生産品であった。
利休のわび茶をさらに推し進めたのが、利休の孫の千宗旦で、「乞食宗旦」と呼ばれるほど、清貧で禅の要素を加味した侘び茶を徹底的に追求した。大名に仕官せず、経済的に貧しかった千宗旦に反発するかのように、異なる茶の道を追い求める動きも出てきた。
飛騨高山藩主、金森可重の長男として生まれた金森重近(宗和)は公家との交友を深めながら、柔らかく優美な茶風を作り上げて「姫宗和」とも呼ばれた。宗和は著名な陶工、野々村仁清を見出したことでも知られ、大工の高橋喜左衛門と塗師(漆塗り職人)の成田三右衛門らに命じて、飛騨春慶塗を生み出した趣味人で、茶道宗和流は今日まで続いている。
春慶は室町時代の漆工(漆を器物の表面に塗り重ねて強度を持たせたり、装飾を施す職人)で、和泉国堺(大阪府)の出身。木地に透漆を塗って木目を見せる春慶塗を考案したとされ、春慶塗は飛騨(岐阜県)、能代(秋田県)、粟野(茨城県)、伊勢(三重県)、木曽(長野県)、日光(栃木県)などに広まった。
備中松山城主(岡山県)、のちに近江国小室藩の藩主となった小堀政一(遠州)は茶人、建築家、作庭家、書家でもあり、王朝文化の美意識を茶の湯に取り入れ、侘び茶を究極まで高めた千宗旦に比べると、華やかで洗練された「きれいさび」と呼ばれる茶を追求していく。
緑、青色のお茶を生み出した「蒸し製煎茶」
中国の明(1368年~1644年)が滅亡し、清(1644年~1912年)が中国を支配し始めた混沌とした時代に、禅宗の僧、隠元隆琦は江戸時代(1603年~1868年)の1654(承応3)年に来日。日本黄檗宗の祖となり、宇治に黄檗山萬福寺を開いた。
隠元は、明代の書をはじめ中国の文化や文物、インゲン豆などを日本に伝え、能書家であり、日本における煎茶道の開祖とされる。煎茶道は、急須などを用いて煎茶や玉露などの茶葉を用いる飲み方。
明時代の中国では淹茶法でお茶が飲まれていた。摘んだ茶葉を鉄の釜で炒って作る「釜炒り煎茶」を淹れる喫茶法で、「淹れる」とは、火から降ろしたお湯でひたす、漬けるという意味だ。
抹茶道は茶室や道具に強くこだわり、手順やルールが複雑だが、形式にとらわれずカジュアルに煎茶を飲みながら清談(古代中国の知識人の間で流行した俗事を避けて風流に親しむ談話のこと)を交わす「煎茶趣味」が文化人の間で広まった。
宇治の萬福寺を13歳で訪れ、黄檗宗の僧となった月海元昭は禅の精神を実践するため、京都市中で煎茶の茶売りをしていた。売茶翁と呼ばれるようになるが、簡単な茶道具を持ち、京都の大通りに簡素な席を設け、客と禅や人のあり方を問答しながら、煎茶を提供して評判となった。
親交のあった伊藤若冲が売茶翁を描いた肖像画を描き残し、池大雅や与謝蕪村などの文人画家たちも売茶翁の姿を描いている。売茶翁の活動は、当時の文化人、知識人の共感を呼び、上田秋成、頼山陽、田能村竹田といった作家、学者、画家などの文人たちの間で、煎茶の文化が広まった。
売茶翁を筆頭に、煎茶愛好者たちは形式や既得権を持つエスタブリッシュメントを嫌い、古代中国の隠遁する賢人のように自由を愛し、精神の気高さを求め、風流を重んじた。
売茶翁の茶売りが話題になっていた江戸時代中期、「煎茶」の製法に改良が行われた。1738(元文3)年、京都宇治の庄屋で、茶業家の永谷宗円が「蒸し製煎茶法」の開発したのだ。
茶葉の加熱方法を「釜炒り」ではなく、抹茶の製法と同様に「蒸す」方法で行い、その後、揉みながら乾燥させるという手法。従来の茶葉は黒かったが、緑、青色のお茶を生み出すことに成功し、青製煎茶製法とも呼ばれる。
江戸の茶商、山本山の山本嘉兵衛は「色つやが鮮やかな緑で、香りがとても良い」と絶賛し、蒸し製煎茶は高値で取引されるようになった。1750年代以降、人気を博し、「緑茶」と言えば「蒸し製煎茶」を指すほどで、現在、最も馴染深いお茶となっている。
煎茶道は明治以降、西洋文化が流入し、衰退していくが、1956(昭和31)年に全日本煎茶道連盟が設立されるなど、日本茶、緑茶が見直される風潮とともに、スポットが当たるようになっている。
表千家、裏千家、武者小路千家の「三千家」
千利休が完成させた「わび茶」は、千利休の後妻の連れ子で、娘婿である千少庵に受け継がれ、さらに息子の千宗旦が継いだ。宗旦は、祖父の千利休が豊臣秀吉に切腹させられたこともあって仕官しなかったが、4人の息子たちは大名家に仕えさせた。
勘当した長男を除き、3人の息子がそれぞれ家を興す。養子に出ていた次男・一翁宗守が千家に戻って官休庵武者小路千家となり、三男の江岑宗左が家督を継承し不審菴表千家と称し、宗旦の隠居所を四男の仙叟宗室が継いで今日庵裏千家となった。
この3家は三千家と呼ばれ、現代まで続いている。茶道に関わる三千家に出入りする茶碗師、釜師、塗師、指物師など10の職家を表す尊称を千家十職と呼ぶ。千家好みの茶道具を作れる職人は限定されており、職人は徐々に固定されていった。
千家十職の職種、職人名は以下のようになっている。
茶碗師 樂吉左衛門(樂長次郎の後継者、宗慶(そうけい)が吉左 衛門を名乗った)
釜師 大西清右衛門
塗師 中村宗哲 棗(抹茶の粉末を入れる容器)の塗り
指物師 駒沢利斎
金物師 中川浄益
袋師 土田友湖
表具師 奥村吉兵衛
一閑張細工師 飛来一閑
竹細工・柄杓師 黒田正玄 茶杓(抹茶をすくう道具)
土風炉・焼物師 西村(永樂)善五郎
お茶が英蘭戦争とアメリカ独立戦争の引き金に
最後に、お茶が歴史に大きく関わった3つのケースを紹介しておきたい。1つはイギリスとオランダの戦争を巻き起こしたお茶の物語。
イギリス国王のチャールズ2世は、ポルトガル国王ジョアン4世の王女キャサリンと1662年に結婚。キャサリンは中国のお茶と、当時、貴重であった砂糖を大量に持参し、宮廷に喫茶の習慣をもたらし、イギリスの貴族社会で「午後の茶」(アフタヌーン・ティー)がブームとなった。
イギリスは、オランダ経由で中国のお茶を輸入していたが、1669年、オランダからのお茶の輸入を禁じる法律を制定。対立が顕著になり英蘭戦争(1672年~1674年)が勃発したが、イギリスが勝利。中国貿易で優位に立ち、1689年以降、中国から直輸入したお茶がイギリスで流通し始めた。
イギリス東インド会社が拠点を置く福建省の厦門にお茶が集められ、お茶を大量に取引し、1720年には中国のお茶の輸入独占権をイギリスが得ることになった。一時、オランダの東インド会社が東アジア、東南アジアの貿易を牛耳っていたのだが、イギリスが台頭し、中国からの輸入品の8割をお茶が占めるほど、ビジネスが拡大する。
お茶が歴史を動かした2つ目はボストン茶会(ティーパーティー)事件で、アメリカ独立戦争の導火線となった。イギリスは度重なる戦争のため財政危機に陥り、その解消のため植民地に関税を掛けて税収を増やそうとした。イギリスの植民地であったアメリカでは関税に反対する運動が起きて撤廃を勝ち取るが、お茶への関税は廃止されなかった。
当時、中国産の茶がアメリカで飲まれており、フランスやオランダの商人がイギリスのお茶への課税を免れて、密輸茶を販売していた。イギリスは1773年4月に茶法(茶条令)を制定し、アメリカ植民地への茶の直送と独占専売権をイギリス東インド会社に与え、密輸のお茶を取り締まり、市場を独占しようとした。
茶を自由に販売できなくなると、アメリカ市民が反発。ボストンの急進グループは同年12月、ボストン港に入港していたイギリス東インド会社の船に乗り込み、茶箱342箱(価格1万8000ポンド)を海中に投棄して逃走する。イギリス当局は犯人を捕らえようとしたが、植民地人は「ボストンで茶会を開いただけ」とごまかし、犯人を検挙できなかった。
ボストン茶会事件で「くたばれ、茶!」という歌が生まれ、それが13の植民地政府に広がり、お茶を飲まずにコーヒーを飲むことで、イギリスへの反感を露わにした。
イギリスは茶会事件の報復として、茶会事件の損害を弁償するまでボストン港を封鎖する高圧的な諸条令を制定して、植民地側を屈服させようとした。植民地側はイギリス製品の不買運動を始め、1774年9月にフィラデルフィアで13植民地の代表が集まり、本国との対決姿勢を鮮明にする。
1775年4月にアメリカ独立戦争が始まり、ジョージ・ワシントンを総司令官に任命し、翌1776年7月、アメリカは独立宣言を発してアメリカ合衆国を誕生させた。その後も戦争は続き、1781年のヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終了し、1783年のパリ条約で戦争が終結。イギリスはアメリカ合衆国の独立を正式に認めることになる。
イギリスがアヘン戦争を起こした原因はお茶
もう1つ、お茶に絡む事件が中国で起きた。清時代(1644年~1912年)の中国とイギリスとの間で始まったアヘン戦争で、これ以降、中国は欧米列強の力に屈することになる。ここでも戦争の原因はお茶だった。
清はヨーロッパ諸国との交易を広東(広州)の港だけに限定し、公行という政府の許可を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めていなかった。ヨーロッパ側で中国貿易の大半を握っていたのはイギリス東インド会社で、イギリスはインドで栽培したアヘンを中国に売っていた。
明代末期の17世紀前半から中国ではアヘンの吸引が広がり、清は何度も輸入禁止令を発したが、アヘンの吸引で健康を害する者が増え、貧困や犯罪など社会不安が高まっていた。
イギリスでは17世紀後半から紅茶を飲む習慣が広まり、18世紀には茶葉の需要が増大。寒冷地のイギリスは茶葉の生産に適しておらず、輸入に頼っていた。インドで紅茶を生産するようになるのは19世紀半ばからで、中国からの輸入が急増していた。清はイギリスからの輸入に頼る必要がなく、自国内で経済が回っていた。イギリスは清に輸出するものがなく、大量の銀が中国に流出することになった。
そこで、イギリスが採った政策は、産業革命で増産が可能となった綿織物など工業製品をインドに売り、インドでアヘンを増産して中国に売り、中国からお茶を輸入するという三角貿易だった。イギリスの思惑通り、清でのアヘン吸引が大流行し、銀の支払いも増えて、清国経済を圧迫する。
清はアヘン中毒者の増加と銀の流出を食い止めるため、取締まりを強化した。清の皇帝、道光帝はアヘン吸引者を死刑に処すことも盛り込んだアヘン厳禁策の採用を決め、具体策を官僚たちに提出させ、優れた提案をした官僚の林則徐を取締まりの責任者に任命し、対外貿易の窓口となっていた中国南部の広州に派遣。
1839年、広東に到着した林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、広州の外国商人たちに「今後、一切アヘンを清国内に持ち込まない」という誓約書の提出を求め、保有するアヘンを供出するよう要求し、「今後アヘンを持ち込んだ場合は死刑に処す」と通告。イギリスの商人や貿易監督官のチャールズ・エリオットは無視し続け、提出期限を経過したため、林則徐は彼らの滞在するイギリス商館に官兵を差し向けて包囲し、保有するアヘンの供出を約束させ、2ヶ月半かけて没収し処分した。
イギリス人商人はアヘンの引き渡しには応じたが、誓約書の提出を拒否し、エリオットは広東在住の全イギリス人をマカオに退去させた。アメリカ人商人など誓約書を提出した商人は貿易を続けていたので、清国側には影響はなく、アヘンを扱っていないイギリス人の商人もエリオットの方針に反感を持ち、清に契約書を提出して貿易を行う者も出ていた。
エリオットは、誓約書を提出したイギリス人の商船が広東に入港することを妨害し、清国軍の船への攻撃を開始し、アヘン戦争が勃発。イギリス人商人を支援するために派遣されたイギリスの東洋艦隊は、林則徐が大量の兵力を終結させていた広州ではなく、首都、北京近郊の都市、天津に向い、港を守る砲台を陥落させ、天津港に入港。狼狽した皇帝は林則徐を解任し、イギリスとの和平交渉を進めた。
林則徐の後任となった琦善はイギリスに低姿勢で臨み、清が大幅に譲歩した川鼻条約を結ぶことになった。だが、イギリス軍が撤収すると、清国内で強硬派が盛り返し、道光帝は琦善を罷免して川鼻条約の締結も拒否。イギリスは再度、軍事行動を起し、清国軍を圧倒し、道光帝ら清政府は戦意を喪失し、川鼻条約よりも不利な南京条約を1842年に結ぶことになった。
自由貿易制に変更し、従来の広東(広州)に加え、福建(厦門)、浙江(寧波)、福州、上海の5港を自由貿易港に定め、イギリスへの賠償金の支払や香港(香港島)の割譲が決まった。さらに、翌1843年の虎門寨追加条約で、イギリスは治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇条項の承認などを清側に認めさせた。
アヘン戦争に続き、第2次アヘン戦争とも呼ばれるアロー戦争が1856年~1860年に、清とイギリス・フランス連合軍の間で起こり、不平等条約である天津条約(1858年)や北京条約(1860年)の締結を余儀なくされた。清は、賠償金の支払い、さらなる開港、外国人の中国での旅行と貿易の自由、キリスト教布教の自由と宣教師の保護、九竜半島南端の九竜地区の割譲などの要求を飲まされた。
アヘンをめぐる戦争であったが、イギリスにとっては、お茶の輸入増加による銀の流出を食い止めるための戦争でもあった。
「たかがお茶、されどお茶」。お茶が経済戦争を引き起こし、歴史を動かしてきた。コショウなど香辛料をめぐって古代ローマ時代から数々の戦争が起きていて、香辛料を求めて大航海時代が到来し、新大陸の発見につながったように、お茶も、歴史の転換点に登場している。
以下、お茶に関するミュージアムを解説するが、茶道の詳細と茶道に関連するミュージアムは別項で紹介したい。
茨城県
奥久慈茶の里公園
茨城県久慈郡大子町大字左貫1920
0295-78-0511
休館日 水曜日 年末年始
9:00~17:00 体験や和紙人形美術館(300円)は有料
茨城県大子町の奥久慈茶は、新潟県の村上市とともに、お茶を商業ベースで生産できる日本最北限の茶産地で、香りが高く、渋みとコクの強さに特色がある。
「日本最北端の茶処」と銘打っている奥久慈茶の里公園では、本格的な茶室で抹茶や煎茶の体験、茶摘み、お茶の手揉み、和紅茶作り体験など、お茶に関するイベントが用意されている。
奥久慈のお茶は約500年の歴史があり、1593(文禄2)年頃、左貫(町北部にあった昔の村の名前)の西福寺の僧、宥明、慶松、常庵などが、京都の宇治から茶実を持ち帰って栽培したことが起源と言われている。
昔ながらのお茶の製法で「手揉み茶」を作っており、茶摘みから蒸し、揉み、乾燥まですべて手作業。焙炉という台の上で揉みの作業が行われ、仕上がったお茶の形は針のようによれて、濃い緑の光沢を持つ。
茶の里広場、物産館、レストランなどの施設があり、晩年を大子町で人形づくりに情熱を燃やした和紙人形作家の山岡草の作品を展示する「和紙人形美術館」では花と人形を組み合わせた斬新な作品に出会える。お茶以外の体験や楽しみとしては、そば打ち、こんにゃく作り体験があり、グランドゴルフ、手ぶらでバーベキューもできる。
茨城県天心記念五浦美術館 岡倉天心記念室
茨城県北茨城市大津町椿2083
0293-46-5311
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
9:30~17:00(入館は16:30まで) 210円
天心記念五浦美術館は岡倉天心や横山大観など、五浦にゆかりの深い思想家や芸術家たちの業績を顕彰し、優れた作品を鑑賞できる美術館として1997(平成9)年に開館した。北茨城市の五浦は、1906(明治39)年に日本美術院第一部(絵画)が移転し、岡倉や大観、下村観山、菱田春草、木村武山など日本画の画家たちが活躍した場所だ。
1906年は、岡倉がアメリカで『茶の本』を英文で出版した年でもある。英語で書かれ、アメリカで出版された本では、新渡戸稲造の『武士道』(1899年)も有名だが、日本や東洋を理解するにはサムライ精神よりも、日本の伝統文化、芸術を知る必要があるとの思いで『茶の本』をまとめた。
岡倉はインド旅行から帰国して書いた『東洋の理想』を1903年に、『日本の覚醒』を1904年に、いずれも英文で著わしている。
廃仏毀釈など、急激な西洋化の波が押し寄せ、伝統的な文化を低く見る明治の風潮に抗い、岡倉は、東京大学で哲学、政治学、理財学(経済学)を教えていたアーネスト・フェノロサとともに、日本の伝統美術の価値を主張し、美術行政官(文部官僚)、美術運動家として近代日本美術の発展に大きな足跡を残した。
日本画改革運動、古美術品の保存、東京美術学校の創設、ボストン美術館中国・日本美術部長就任など、華々しい活躍をしたが、岡倉天心記念室では、岡倉の歩みを年表、資料などで振り返り、愛用した茶道具の茶匙や棗などの遺品を展示。
日本美術復興に貢献した岡倉天心のルーツは、父の岡倉覚右衛門の境遇と才覚にあった。覚右衛門は越前福井藩の農家の生まれで、口減らしのため、親戚の福井藩士の家に奉公に出された。弓の腕を見込まれ、18歳のとき、福井藩士の岡倉家の養子になる。
岡倉家は下級武士であったが、覚右衛門は1859(安政6)年、開港した横浜で働くようになり、福井藩の貿易と情報収集の拠点、横浜に設立した貿易会社「石川屋」を任された。藩籍を離脱して商人となり、生糸や呉服などを外国人商人に売りながら、国内外の情報を収集。幕末の四賢侯の1人、福井藩藩主の松平春嶽からも信頼を得ていた。
四賢侯の他の3人は、薩摩藩藩主の島津斉彬、土佐藩藩主の山内豊信(容堂)、宇和島藩藩主の伊達宗城である。
1863年、横浜で生まれた岡倉天心(本名は覚三)は武家の素養である漢学の他に、横浜居留地の外国人教師から英語を学び、東洋と西洋双方の教育を受け、教養を身に付けた。弟の由三郎は英文学者になっている。
明治になって、岡倉一家は東京・人形町へ移って旅館業を始め、覚三は東京外国語学校(現・東京外国語大学)に進学し、さらに東京開成学校(1877年に東京大学に改組)で政治学、理財学(経済学)を学んだ。
英語が得意だったことから、岡倉天心は、1878年に来日し、東京大学で哲学、政治学、理財学を教えることになったアーネスト・フェノロサの助手になる。美術に関心があったフェノロサは東大の同僚に美術を学び、助手の岡倉とともに古寺の美術品を訪ね歩いた。
1880年、東京大学を卒業した岡倉は文部省に入り、音楽取調掛として勤務。翌年、フェノロサとともに日本美術の調査を始める。東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)設立のため、フェノロサと欧米を視察(1886年~1887年)。
浮世絵など、日本美術の影響を受けている西洋の美術界、アールヌーヴォー(新しい芸術)運動を見て、日本美術の偉大さに気付かされ、伝統美術復興への意欲を高めた。
明治以降、寺や仏教の排斥が行われ、日本的、東洋的なものを軽んじる風潮の中で、フェノロサも「西洋美術よりも、日本美術のほうが優れている」と考えるようになる。
フェノロサと岡倉は、美術家と美術教員養成のための学校、東京美術学校の開校に尽力。1889年に開校し、翌年、岡倉が校長に、フェノロサが副校長に就任。教官は日本画家が中心で、伝統美術の振興を目指す岡倉とフェノロサの思いが具体化された。
1896年に西洋画科と図案科が新設され、洋画の画家たちが教官となり、洋画界隆盛の基盤が築かれた。だが、伝統美術を第一とする岡倉校長の独断的な学校運営への批判が高まり、1898年に「美術学校騒動」が起きた。
帝国博物館(現・東京国立博物館)初代館長で文部官僚の九鬼隆一と、東京美術学校校長で、帝国博物館美術部長の岡倉が対立。九鬼の妻と岡倉が不倫していたことが明らかになり、東京美術学校教官からの排斥運動もあり、岡倉は美術学校校長、帝国博物館美術部長を辞任する。
同時期、自主的に辞職した横山大観、下村観山、菱田春草らとともに、岡倉は日本美術院を下谷区谷中(現・台東区)に新設。美術の研究と教育、美術展覧会の開催を行い、美術界を盛り立てようとした。だが、岡倉がインドやイギリスを訪問したり、大観、春草もインドに行くなど、日本を留守にしたこともあって活動が停滞。
光や空気を描けないかという、岡倉が与えた課題画の作成の中で、朦朧体(東洋画、日本画の伝統的な線描技法、輪郭線を用いず、色彩の濃淡で形態や構図、空気や光を表す)という技法を編み出すが、朦朧体で描いた作品の評判が悪く、絵が売れず資金不足にもなっていた。
茨城県の五浦海岸(北茨城市)に別荘(六角堂)を建設した岡倉は、翌1906年、日本美術院の第一部(絵画)を五浦へ移転し、大観、春草、観山、木村武山も移住。当時、岡倉はフェノロサの紹介でアメリカのボストン美術館にも勤務しており、五浦とボストンを往復する生活を送っていた。この年、アメリカで『茶の本』を英文で出版している。
岡倉はアメリカに6回、ヨーロッパに4回、中国に4回、インドに2回行っており、グローバルな視点で、東洋と西洋に接してきた。「東と西の文化は相容れないが、違いを理解し、歩み寄ることが重要だ」と悟り、多様性を重んじるべきと考えて『茶の本』を上梓。14カ国語以上の言語に翻訳され、日本を理解する一助となってきた。
1910年、岡倉はボストン美術館中国・日本美術部長として渡米し、日本美術院は事実上解散状態となった。翌年、岡倉は帰国し、1912年に文展(ぶんてん)(文部省美術展覧会。その後、帝国美術展覧会、新文部省美術展覧会を経て、日本美術展覧会、日展になっていく)の審査委員に就任する。だが、体調が悪く静養中だった岡倉は翌年、50歳で永眠。
文展(文部省美術展覧会)の運営、美術界に不満を持つ大観や観山らは1914年、岡倉の意志を引き継ぐ形で日本美術院を再興し、谷中を拠点とした。菱田春草は1911年に37歳の若さで亡くなったが、日本美術院に参加した大観、観山、安田靫彦、今村紫紅らは日本の画壇を牽引していく。
『茶の本』の日本語版の完訳が出版されるのは天心の死後16年後の1929年で、岩波文庫からの翻訳本が出た(天心は号で、漢詩を作るときなどに用いており、通常は覚三を名乗っていた。著者名も岡倉覚三)。
弟の英文学者、由三郎が岩波文庫のはしがきで、メッセージを寄せている。茶の湯や、老子荘子の思想、芸術論が語られているが、茶事に関する理解を覚三がどのようにして得たのか疑問に思う読者がいるかもしれないとしたうえで、以下のようなエピソードを披露。
月に数回、幕末の有名な茶人、正阿弥に茶を習い、幼かった私も茶室でしびれを切らしながら参加していたと。アメリカ、ボストンの兄の机には陸羽の『茶経』が開かれていたに違いないと記し、「兄の筆から出た著作の中では(中略)いちばん永久性に富んだ心にくい作品である」と解説している。
茶道、煎茶などの茶の本でありながら、欧米の物質主義的文化に対し、東洋の伝統文化、精神文化の奥深さを解き明かそうという比較文化論のため、『茶の本』は多くの言語に翻訳され、世界の人々に読み継がれてきた。「茶は薬用として始まり、後に飲用となる」の書き出しで始まり、千利休の自害のシーンで終わっている。
天心記念五浦美術館のホームページには、「館長とめぐる天心記念室散歩」という動画をアップしている。第1回は「岡倉天心ってどんな人?」
最終回の第5回は「茶の本」をテーマに岡倉天心について紹介している。
東京都
お茶の文化創造博物館/お~いお茶ミュージアム
東京都港区東新橋1-5-3 旧新橋停車場内
03-6264-6751
休館日 月曜日(祝日の場合は翌平日) 年末年始
10:00~17:00(入館は16:30まで)お茶の文化創造博物館は500円 お~いお茶ミュージアムは無料
お茶のリーディングカンパニーとして事業展開してきた伊藤園が創業60周年、「お~いお茶」誕生35周年を記念して、2024年にミュージアムを開設した。
「お茶の文化創造博物館」は喫茶習慣の変遷をテーマに、お茶の歴史をたどり、製法や飲み方の変化、喫茶習慣を考えるための博物館で、「お~いお茶ミュージアム」は日本茶を飲むシーンを変えた「お~いお茶」に焦点を当て、缶やペットボトルで販売されるお茶の歩み、お茶の市場、未来への布石を伝える。
「お茶の文化創造博物館」では、茶道具、資料、パネル、ジオラマを使った茶摘みの変化、浮世絵から再現した江戸時代の茶屋などの展示物から、お茶の歴史を紐解いていく。大画面のシアタールームでは「お茶を辿(たど)る」と題した映像を流し、お茶の世界に誘う。からくり人形の茶運び人形と荒茶機械なども紹介。
「お~いお茶ミュージアム」は「お~いお茶」がどのようにして誕生し、ユーザーが望む形にどう変化したのか、茶畑から製造までの取組みを公開する。お茶の専門店でしか購入できなかった茶葉をスーパーマーケットや食料品店などで手軽に購入できる仕組みをどう構築したのか、「缶入りウーロン茶」「缶入り煎茶」など1980年以降の開発、そして1989年の「お~いお茶」誕生など、時代やライフスタイルの変化に「お茶」がどのように対応してきたかが分かる。
「お~いお茶ヒストリー」のコーナーでは各時代の背景や懐かしいテレビCMを放映し、新俳句コーナーではオリジナルの「新俳句シール」が作成できる。「日本茶再発見!急須を使ったお茶淹れ体験」(1時間)、「自分で作る!ほうじ茶体験 」(1時間)、「玄米茶を作ってみよう!」(1時間)などの有料体験コーナーも備えている。
お茶百科 Webミュージアム
伊藤園
東京都渋谷区本町3-47-10
03-5371-7111
伊藤園が運営するお茶に関する情報サイト。お茶の発祥、お茶の歴史、お茶の種類(日本茶、中国茶、紅茶)、お茶の淹れ方、お茶の成分と健康性、お茶の産地、お茶の起源や製造工程を紹介する「お茶のできるまで」を公開。
お茶の製造工程では、煎茶、抹茶、ウーロン茶、ジャスミン茶、紅茶に加工されるプロセスをチャートや図解で解説している。
茶ガイド Webミュージアム
全国茶生産団体連合会
東京都千代田区内神田1-7-5 旭栄ビル54号
03-5259-5671
全国茶主産府県農協連連絡協議会
東京都千代田区大手町1-3-1 JAビル30F
03-6271-8200
全国茶生産団体連合会と全国茶主産府県農協連連絡協議会が運営しており、「茶ができるまで」では茶のあゆみ、産地紹介、産地マップ、茶の種類と産地などを紹介。
「茶の生産と流通」では茶の生産量と消費量の推移など、「茶の科学」では茶の種類別の栄養素の含有量など、「茶の利用」ではお茶を材料にした商品例などが分かる。
日本茶を知る Webミュージアム
日本茶業体制強化推進協議会が運営するサイトで、「Japan Tea Action」「Let’s Relax , Drink Japan Tea!」を提唱する。
日本茶業体制強化推進協議会は日本茶業中央会に事務局を置き、お茶の関係団体などと連携して日本茶の需給喚起と茶文化の普及を目的とする団体。
東京都港区東新橋2-8-5 東京茶業会館5階
03-3434-2001
日本独特の文化を持つ日本茶には、美容や健康をサポートする機能やリラックス効果など、暮らしを楽しく健やかにする力があり、日本茶の素晴らしさをアピール。
「Japan Tea Action」の「日本茶を知る」では、お茶の効能(お茶でダイエット&アンチエイジング?)、お茶の種類(日本茶・烏龍茶・紅茶、元はみんな同じ茶葉!)、お茶の産地(静岡と鹿児島は永遠のライバル?)、美味しいお茶の淹れ方(軟水or硬水で味が変わる!?)、お茶の活用術(まだまだあるお茶の底力 おうちで楽しむウラ技!)、お茶の歴史(お茶を「一服」という理由は?)といった情報を提供している。
日本茶ドア Webミュージアム
日本茶ドアは、日本茶業体制強化推進協議会が運営する、日本全国のお茶に関する情報が検索できるポータルサイト。
東京都港区東新橋2-8-5 東京茶業会館5階
03-3434-2001
美味しいお茶を買いたい、美味しいお茶を飲みたい、お茶料理を楽しみたい、茶器を買いたい、お点前やお茶摘みなどの体験をしてみたい、お茶のイベントに参加したいなど、お茶に関する「やりたい」「知りたい」をサポートする。
埼玉県
入間市博物館 お茶の博物館
埼玉県入間市二本木100
04-2934-7711
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 祝日の翌日(土曜日、日曜日、祝日の場合は開館) 年末年始
10:00~17:00(入館は16:30まで) 200円
埼玉県入間市にある入間市博物館は「入間の自然」「入間の歴史」「茶の世界」「こども科学室」の4つの常設展があり、愛称は「アリット」。
狭山茶の生産地である入間市はお茶の展示に力を入れており、「茶の世界」では、日本と世界各地の茶の文化に関する研究活動と情報提供を行っている。「狭山茶の生産用具」(国の登録有形民俗文化財)や世界の茶器が展示され、日本茶と狭山茶の歴史をパネルや資料で解説し、徳島県の阿波番茶、富山県のバタバタ茶など、日本各地の特殊なお茶も紹介。
埼玉には12世紀末にお茶が伝わり、河越茶、慈光茶と呼ばれる抹茶を作っていたが、廃れてしまった。狭山茶は、江戸時代の後期、現在の入間市に住んでいた吉川温恭と、東京・瑞穂町の村野盛政によって生み出された。
狭山丘陵で偶然見つけた茶の葉でお茶を作り、江戸で販売しようと計画。当時、山城国の宇治の永谷宗円(永谷宗円の子孫の1人が、永谷園を創業した永谷嘉男)が考案した、茶葉を蒸す「蒸し製煎茶」が広まっており、吉川は京都や滋賀に行って製法を視察し、宇治に人を派遣して、数年間、実習をさせたと伝えられている。
永谷宗円の「蒸し製煎茶」(宗円以前のお茶は黒っぽかったが、青く緑色の仕上がりだったため青製煎茶製法と呼ばれる)を取り扱っていた江戸の茶問屋、山本山の山本嘉兵衛徳潤に茶を贈ると、山本は絶賛。吉川と村野は、狭山丘陵北麓の農家にお茶の栽培、製茶技術を伝えて量産体制を整え、山本山をはじめとする江戸の茶問屋と、本格的な取引契約を交わした。
こうして、関東で初の「蒸し製煎茶」の産地が誕生。埼玉県と東京都にまたがる狭山丘陵で育ったお茶なので、狭山茶と命名された。
「色は静岡 香りは宇治よ 味は狭山でとどめさす」
古くから歌い継がれている茶摘みの歌で、静岡県の静岡茶、京都府の宇治茶、埼玉県の狭山茶が三大銘茶と言われている。日本五大銘茶と称されるのは、滋賀の朝宮茶、京都の宇治茶、静岡の川根茶と本山茶、埼玉の狭山茶。
朝宮茶は、滋賀県甲賀市信楽町朝宮周辺で栽培される日本茶で、805年に延暦寺を開いた最澄が唐から茶の種子を持ち帰り、朝宮に植え、815年に朝廷に献上した歴史を持ち、日本で最も古いお茶の産地と言われている。
入間市博物館の「お茶の博物館」には、絵師で、京焼の陶工の青木木米が作陶した急須や、京焼の陶工、仁阿弥道八の茶道具など、貴重な茶器や茶道具を所蔵しており、豊臣秀吉が千利休に大坂城の城内に建てさせた茶室を再現している。
お茶の博物館 入間市博物館 Webミュージアム
お茶の基礎知識、世界のお茶、日本のお茶、狭山茶、植物としてのチャ、体験コーナーなどのコンテンツを掲載している。https://www.alit.city.iruma.saitama.jp/070/index.html/
お茶の博物館 入間市博物館 Webミュージアムの「お茶の種類と作り方」では、緑茶、ウーロン茶、紅茶の作り方の違いがイラスト入りで解説されており、さまざまな種類のお茶の葉とお茶の色をカラー写真で紹介している。
https://www.alit.city.iruma.saitama.jp/070/010/010/20200101175000.html/
品種茶専門店 心向樹 Webミュージアム
埼玉県所沢市小手指町4-1-18
042-001-6465
心向樹の川口史樹代表は農研機構 菜茶業研究所(現在は農研機構 果樹茶業研究部門)に勤務し、お茶の新品種の育種・開発に携わった。3万種類を超えるお茶を飲み、お茶が持つ価値、奥深さに感じ入り、品種のお茶を専門に扱う販売会社「心向樹」を創業。茶業コンサルティングも行う。
心向樹のホームページの「知る・見る・学ぶ」では、お茶の機能性や成分などを紹介した「お茶のあれこれ」、お茶の品種、品種をマッピングしたチャートなどを掲載した「品種茶の話」で、お茶情報を発信している。
新潟県
村上茶 Webミュージアム
新潟県村上市田端町11-8
村上市観光協会
新潟県の村上市は、茨城県大子町の奥久慈茶とともに、お茶を商業的に生産できる日本最北限の茶産地。村上茶は雪に覆われる厳しい冬の気候と栽培技術によって、独自の風味を持った味わい深さに特徴がある。
東北地方でも昭和の初め頃まで、お茶の栽培が盛んに行われていたが、寒冷な産地は次第に競争力を失い廃業に追い込まれた。村上茶は江戸時代初期の1620年代に栽培が始まり、村上藩の大年寄、徳光屋覚左衛門が宇治や伊勢の茶の実を買い入れ、主要な地場産業に育てようとしたのが始まりで、約400年の歴史がある。
新潟県の北端にある村上茶が生き残れたのは、海岸側のため比較的積雪量が少なく、適度な積雪が茶の木を寒風から保護してくれること、冬期の最低気温がマイナス10度以下になることが少ない、などの条件に恵まれ、長年、栽培技術を磨いてきたことが茶産地を死守できた要因だ。
栽培と製茶に改良を続け、明治時代には茶畑の面積は400haになり、製造された緑茶や紅茶は米国のニューヨークやロシアのウラジオストクにも輸出された。幕末から明治にかけて生糸とお茶が輸出の花形にり、村上でも1878(明治11)年から紅茶の生産を始めている。「村上茶 Webミュージアム」では村上茶の歴史、お茶の美味しい淹れ方、世界で愛飲された村上の紅茶などを紹介。
静岡県
ふじのくに茶の都ミュージアム
静岡県島田市金谷富士見町3053-2
0547-46-5588
休館日 火曜日(祝日の場合は翌平日) 年末年始
9:00~17:00(入館は16:30まで) 300円
静岡県は『ふじのくに「茶の都しずおか構想」』を2014(平成26)年に策定し、静岡茶のブランド確立、お茶のある健康で豊かな暮らしを実現するため、「茶の都しずおか」の推進を決定した。
日本一の大茶園の牧之原台地にあり、博物館、茶室、庭園、商業館を持つ「旧・島田市お茶の郷」の「お茶の郷博物館」を2016年に閉館し、新たに「ふじのくに茶の都ミュージアム」を2018年に新設して「茶の都しずおか」の拠点とした。
常設展では、お茶の起源と世界へのお茶の広がり、日本での普及、静岡のお茶事情について、産業、文化、歴史、民俗、機能性などの視点から分かりやすく展示。茶摘み体験、手揉み体験、抹茶挽き体験、茶道体験の他、お茶のセミナーやイベントも開催。五感で感じるイベント、講座を充実させ、お茶について楽しく学べる機会を提供している。
中国から本格的に渡ってきた日本のお茶は1200年の歴史を経て、独自の文化を形成し、茶の湯の文化を生み出した。日本の美術、工芸、建築、造園にも大きな影響を与えており、小堀遠州ゆかりの日本庭園や茶室を設置するなど、茶の湯の世界をミュージアムの中に復元している。
日本における臨済宗の開祖、明菴栄西は廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えた「中興の祖」とも言える存在。2度目に宋に渡った栄西はお茶の種を持ち帰り、1191(建久2)年に肥前の霊仙寺(佐賀県吉野ヶ里町)で栽培を始め、僧侶や貴族だけでなく武士、庶民にも、お茶を飲む習慣が広まるきっかけとなった。
鎌倉時代中期の臨済宗の僧、円爾(聖一国師)は京都の東福寺を開山するなど、禅、臨済宗の布教に力を尽くしたが、晩年は故郷の駿河国に戻り、宋から持ち帰った茶の種子でお茶の栽培を広めたため、静岡茶の始祖と称されている。
明治以降、静岡県は牧之原台地での大茶園の開墾を推進して近代日本のお茶ビジネスを支え、日本トップのお茶の生産量を鹿児島県と競っている。
「茶をめぐる情勢」農林水産省 2024年6月に作成した資料を参照。
https://www.maff.go.jp/j/seisan/tokusan/cha/attach/pdf/ocha-80.pdf
しずおかO-CHAプラザ
静岡県静岡市駿河区南町14-1 水の森ビル3F しずおかO-CHAプラザ内
054-654-3700 (世界緑茶協会)
休館日 土曜日 日曜日 祝日 年末年始
9:30~16:30(入館は16:00まで) 無料
静岡県は、緑茶に関する情報を国内外に発信し、多くの人が緑茶に親しみ、優れた文化性と効能や機能を持った緑茶の恵みを享受できるようにするため、2001(平成13)年に世界緑茶協会を設立し、世界初の「世界お茶まつり」を開催した。世界への情報発信、日本茶の輸出促進、緑茶に関する情報誌「緑茶通信」の発行、茶文化のセミナーや講演会などに注力。
「しずおかO-CHAプラザ」は茶器やお茶に関する資料、書籍が展示され、お茶の知識を学べる。日本茶インストラクターらがお茶の産地や特徴を説明し、そのお茶に合った美味しい緑茶の淹れ方を教えてくれる。
世界緑茶協会のホームページでは、「おしえてTea Cha!」「お茶百科事典」「お茶のあるおもてなし」「お茶の効能研究成果集」を掲載しており、お茶の歴史、お茶の科学、どのようにしてお茶を作るのか、44のお茶の種類、日本茶・紅茶・中国茶の美味しい淹れ方、緑茶の効能の最新研究成果を紹介している。
静岡県経済産業部 茶業農産課は『しずおか お茶の都 マップ』を作製している。
https://www.pref.shizuoka.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/027/271/chanomiako_map1.pdf
グリンピア牧之原 牧之原・歴史の小部屋
静岡県牧之原市西萩間1151
0548-27-2988
休館日 年末年始
10:00~17:00 工場見学などは無料 茶摘み体験は有料で要予約
お茶の製造・卸を手掛ける喜作園は、渡邊喜久次が「作る喜び」を目指して1933(昭和8)年に創業。かつて飲料は「夏の麦茶、冬の緑茶」が一般的だったが、喜作園は緑茶を基本にして、紅茶、烏龍茶、健康茶などを商品化してきた。
喜作園のショールームとして1995(平成7)年に誕生したのが「グリンピア牧之原」で、お茶作りのプロセスが分かる工場見学、お茶摘体験ができ、逸品館で多彩なお茶を販売している。
工場見学通路の2階スペースに「牧之原・歴史の小部屋」と銘打って、牧之原の歴史などを紹介した歴史パネル館と、製茶工場で実際に使用していた機械を紹介する製茶機械展示室を2015年に開設。
歴史パネル館では、明治期にお茶の一大産地、牧之原台地で牧之原大茶園を開墾した歴史や、牧之原を代表するお茶「深蒸し茶」の特色と効能をイラストを使って分かりやすくパネルで紹介している。
製茶機械展示室では、昭和初期に実際に使用していたお茶を製造する製茶機械5台を、実際に稼働する形で動態展示。茶葉を蒸す蒸機、茶葉を揉んでいく4つの機械、粗揉機、揉捻機、中揉機、精揉機の稼働の様子を間近で見ることができる。
フォーレなかかわね茶茗舘 郷土資料館
静岡県榛原郡川根本町水川71-1
0547-56-2100
休館日 水曜日 祝日の翌日 年末年始
10:00~16:30(呈茶受付は16:00まで) 無料(川根茶・川根紅茶の呈茶は各300円)
大井川に沿って広がる緑豊かな川根本町の縄文時代から続く町の歴史、お茶の歴史、文化などを紹介する施設で、1994(平成6)年にオープンし、道の駅に指定されている。味と香りのバランスに優れた「やぶきた」や独特の香りの「おくひかり」などを産出する茶業の歴史が分かる。町の名産品である川根茶の淹れ方を体験したり、川根本町名物のお菓子をお茶うけに、お茶を堪能できる茶室や庭園を備える。
縄文時代からの人の暮らし、遮光器土偶などの郷土資料を展示、紹介する郷土資料館を併設。地元の四季を描いた藤城清治の影絵作品を常設展示する「なかかわねシルエットギャラリー」もあり、特設展示の企画、地域住民によるイベントも開催される。
日本茶 全国茶商工業協同組合連合会 Webミュージアム
静岡県静岡市葵区北番町81 茶業会館3階
054-271-6161
全国茶商工業協同組合連合会(全茶連)のホームページでは、お茶に関する情報を分かりやすく紹介している。
「Go To お茶体験 TEA MAP」ではお茶体験ができる静岡県、愛知県、三重県、福岡県、鹿児島県の体験施設をイラスト入りの地図と検索機能で探せるようになっている。
「ニッポンどきどき探訪 日本茶暮らしにどきどき」ではお茶の道具、日本茶の淹れ方、お茶のいろはなどを紹介。
「未来クリエーター おいしいお茶にどきどき」ではお茶ができるまで、お茶の種類、お茶を使った食べ物、お茶のチカラなどをイラスト入りで解説している。
「動画」では4種類のお茶(煎茶、深蒸し煎茶、玉露、焙茶)の淹れ方を動画で配信する。
知って得する!お茶百科 Webミュージアム
静岡県茶業会議所
静岡市葵区北番町81
054-271-5271
「しずおかお茶館 バーチャル茶筒型お茶ミュージアム」「お茶あれこれ」「資料」などのページがある。
「お茶あれこれ」では、お茶の歴史、お茶の種類、静岡県の茶業、お茶のできるまで、茶文化施設の紹介、お茶の科学(サイエンス)、美味しいお茶を飲むには、知らなきゃソンするお茶のこと、注目されている茶品種ガイドブックといった情報を掲載している。
cha museum Webミュージアム
静岡県静岡市駿河区みずほ4-2-3
054-259-0141
「cha museum お茶ミュージアム」は静岡の製茶、販売会社の市川園が運営しており、お茶の産地、お茶の種類、世界のお茶文化、お茶ができるまで、お茶と歴史、茶葉の扱い方、お茶を楽しむ、お茶と健康などのテーマで情報を発信している。
現在のお茶処、静岡の起こりは鎌倉時代の3人の高僧にあると、静岡県民は特別な思いと感謝の気持ちを持っているという。
その3人とは、日本の臨済宗の開祖で、日本でお茶を普及させた明庵栄西(千光国師)、京都の東福寺を開山し、静岡茶の始祖とされる静岡出身の円爾(聖一国師)、同じく静岡に生まれ、宋から茶釜など茶道具や茶に関する書籍を持ち帰り、日本の草庵式茶道の創立者と呼ばれる南浦紹明(円通大応国師)だ。
歴代の天皇や上皇から、「国の師」と認める高僧に贈る称号の「国師」の諡号(死後に、生前の行いを尊んで贈る名前)を贈られるため「三国師」と呼ばれている。
「cha museum お茶ミュージアム」のお茶の生産量や消費量などのデータは2009年時点のもので、更新されていないのは残念。
静岡茶発祥の地 足久保 Webミュージアム
足久保ティーワークス茶農業協同組合
静岡県静岡市葵区足久保口組2082-2
054-296-6700
鎌倉時代の高僧、聖一国師が中国の宋から持ち帰ったお茶の種を播いたのが足久保(静岡市葵区)で、「静岡茶発祥の地」とされる。安倍川に流れ込む支流の足久保川流域は昼夜の大きな寒暖差と、沸き立つ霧が直射日光を遮って天然の覆いとなり、じっくりと茶葉を育てるところに足久保茶の特色がある。
駿府(静岡県)に隠居した徳川家康は茶の湯を好み、頻繁に茶会を催し、お茶の貯蔵用施設「御茶蔵」を、夏でも涼しい井川(静岡市葵区)の大日峠に建てた。徳川綱吉の時代の1681(延宝9)年に、足久保から煎茶を江戸城に納めたことが記録に残っており、足久保茶は「将軍家御用達の高級茶」として広く知られていた。
足久保ティーワークス茶農業協同組合は足久保の茶農家約50軒が集まり、1997(平成9)年に発足。ホームページでは足久保茶の歴史や特色、茶製造へのこだわりを紹介し、全席屋外のオープンテラスカフェ「はじまりの紅茶」の案内もしている。
以下のURLでも「静岡茶発祥の地 足久保」の取組みや足久保茶の特色を写真やイラストを交えて解説する。
富山県
バタバタ茶伝承館
富山県下新川郡朝日町蛭谷484
0765-84-8870
休館日 火曜日 木曜日 日曜日 冬季(12月下旬~2月末)
10:00~15:00 体験無料
バタバタ茶伝承館は2010(平成22)年にオープンし、朝日町の特産品、バタバタ茶の試飲体験や、加工作業の見学も可能な施設。室町時代に、真宗本願寺第8世の蓮如上人が1472(文明4)年に蛭谷を訪れ説法したとき、すでに飲まれていた黒茶を提供し、蓮如が喫茶したと伝わっている。
バタバタ茶は後発酵茶で、中国伝来の製法で作られる。プーアール茶に似た製法で、真夏の暑い時期に木桶に漬け込み、約1ヶ月かけて乳酸発酵させる。お茶をたてるとき、あわただしくバタバタと茶せんを振る動作にちなんで「バタバタ茶」と名付けられた。
江戸時代初期の肥前国の陶工、高原五郎八によって造られた、普通よりやや大きい飯茶碗の五郎八茶碗に煮出したお茶を注ぎ、茶筅で大きな音を響かせて泡立てるのが特色。かつては各家庭の囲炉裏にかけた茶釜に黒茶を煮出しておき、家族や近所の人が囲炉裏を囲んでお茶を飲んで話をしたり、漬物を食べたりする交流の場に欠かせないものであった。
三重県
四日市市茶業振興センター
三重県四日市市水沢町252-63
059-329-3367
休館日 月曜日(祝日の場合は翌平日) 年末年始
9:00~16:00 無料
三重県はお茶の生産量が静岡県、鹿児島県に次いで全国3位で、三重県北部を中心に作られている「かぶせ茶」は日本一の生産量を誇る。かぶせ茶は、茶葉を刈り取る2週間ほど前に、茶畑に黒い覆いをかぶせ、煎茶より味わい深いお茶に仕上げている。玉露の生産でも全国トップ。
茶業振興センターがある四日市市水沢地区では、平安時代の延喜年間(901年~923年)に、空海(弘法大師)が飯盛山浄林寺(水沢町。現在は一乗寺)の住職である玄庵に唐伝来の製茶の教え、お茶の栽培が始まったと言われている。昼夜の温度差が大きく、水はけのよい土壌であることも、高品質のお茶が育つ条件となっていて、古くからお茶の産地として知られている。
四日市市茶業振興センターは1992年に設置され、2018年に移転。伊勢茶やお茶ができるまでを解説したパネル、お茶の道具、使われていた製茶機械、茶刈り機などが展示され、お茶の歴史の説明を聞いたり、製茶工場の見学もできる。
松阪市飯南茶業伝承館
三重県松阪市飯南町粥見1125-1
0598-53-4181 松阪市農水振興課
休館日 土曜日 日曜日 祝日 年末年始
8:30~17:00 予約があったときだけ開館https://www.city.matsusaka.mie.jp/soshiki/32/dennshokann.html/
伊勢茶の産地として有名な松阪市飯南町にある茶の資料館で、茶業振興とお茶の製造技術の伝承を図り、茶の歴史と茶情報の発信拠点となっている。伊勢地方独特の製法である深蒸し煎茶の製造や栽培方法をパネル、資料で分かりやすく展示し、茶の歴史、お茶の文化を紹介。深蒸し煎茶は、煎茶とほぼ同じ製法だが、蒸す過程で煎茶より長く(深く)蒸すことで多くの成分が浸出され、色が濃く、ほどよい渋味があるものの、苦味の少ない、まろやかなお茶になる。
南伊勢地域最大の茶産地である松阪市の西部に位置する飯南・飯高地域で生産される深蒸し煎茶を、誰もが親しみやすい「松阪茶」と命名。温暖な気候と豊かな土質、櫛田川が生む朝霧に包まれた松阪茶を、深蒸し煎茶の最高級ブランドに育ててきた。
伊勢茶.net Webミュージアム
伊勢茶推進協議会
伊勢茶推進協議会は伊勢茶の啓蒙宣伝を目指す組織で、三重県内の3つのお茶の組織、三重茶農業協同組合、全農三重県本部北勢茶センター、全農三重県本部南勢茶センターで構成されている。「伊勢茶.net」は伊勢茶推進協議会が運営しており、伊勢茶を知る、お茶づくりを知る、お茶を知る、急須で緑茶を飲もう、食茶(緑茶を美味しく食べる)などの情報を発信。
「千年以上前から親しまれている三重の銘茶、伊勢茶」では、定番茶種の特徴、お茶の種類、お茶生産者の仕事などを図解で紹介している。
https://www.isecha.net/isecha_panf.pdf
京都府
お茶と宇治のまち歴史公園 茶づな
京都府宇治市莵道丸山203-1
0774-24-2700
年中無休
9:00~17:00(入館は16:30まで) ミュージアム入場料600円
宇治橋からほど近い、宇治川沿いに位置する歴史公園にある「史跡宇治川太閤堤跡」は、約400年前、豊臣秀吉(太閤秀吉)が伏見に陸路と水路を集約するために築いた太閤堤で、護岸では当時の石積み技術が残る石垣を見ることができる。
宇治の魅力を発信する「お茶と宇治のまち交流館『茶づな』」では、展示や映像により宇治の歴史を紹介し、茶摘みや石臼から挽いた抹茶作りなどのさまざまな体験プログラムを用意。展望テラスや広場もあり、茶園の景観を再現したのが修景茶園、野点の庭、水辺の庭などの宇治の景色を楽しみ、季節の移り変わりを感じながら散策を楽しめる。
歴史公園では、宇治茶の魅力と宇治の歴史・文化へ誘う玄関口として、「史跡ゾーン」と「交流ゾーン」に分けて整備。デジタルサイネージ「#宇治まちあるき」では宇治の名所や街の見どころをタッチパネルで紹介。有料エリアのミュージアムでは、どのようにしてお茶を作るのか、宇治茶の歴史、玉露と煎茶の違い、美味しいお茶の淹れ方などをデジタル展示で解説し、手で触れて体感できる。ハイビジョンの大スクリーンで「うじ名所図会」を上映している。
宇治・上林記念館
京都府宇治市宇治妙楽38
0774-22-2509
休館日 金曜日 8月13日~16日 12月30日~1月5日
10:00~16:00 200円
宇治・上林(かんばやし)記念館は、江戸幕府や朝廷の御用茶師を務めていた宇治茶の老舗、上林春松家が開設したお茶に関するミュージアムで、1978(昭和53)年に開館した。記念館の建物は「長屋門」と称され、将軍家の御用を務めた宇治茶師の独特なもの。
上林春松家に伝わる宇治茶、宇治茶師に関する資料などを収蔵、展示。豊臣秀吉、古田織部、小堀遠州などが上林家に宛てた書状、堺の町人の呂宋(納屋)助左衛門によってルソン島を経由して輸入された呂宋壺、製茶図(製造工程を詳細に描いたもの)、秀吉の茶会記、徳川将軍家の御茶壺道中に使われた茶壺、さまざまな茶道具など、天下第一の名声を誇った宇治茶の歴史を垣間見れる。
宇治は天領で、御茶師(宇治茶を生み出し、将軍家の御用を務める特定の家)の町であった。町を代表するのは宇治郷代官で、御茶師の頭取である上林家。豊臣秀吉の頃、上林家の始祖である上林掃部久茂は、千利休が点てる茶を作っていた。
江戸幕府は、御茶壺道中(宇治から徳川将軍家御用達の茶を江戸城に運ぶ宇治採茶使一行の行列)を毎年行なっていた。有力藩の藩主もそれぞれの御茶師を抱えて扶持を与え、領内での特権を許した。
御茶師には、御物御茶師、御袋御茶師、御通御茶師と呼ばれる3つの階級があり、御物御茶師は将軍の喫する茶と、将軍から朝廷や日光や久能山などの菩提所へ献ずる茶を調達する茶師で、最高の格式を持っていた。御物御茶師は当初8家で組織されていたが 元禄年間に11家に増えた。
御袋御茶師は、歴代の将軍が、江戸城内の紅葉山東照宮に奉納する茶壺に、極上新茶を2袋ずつを詰め加える栄誉を担い、御通御茶師は、御袋御茶師とともに幕府の用いる多量の茶を納入する役割を与えられていた。御物茶師は、徳川綱吉の時代に、上林味卜、上林春松、上林平入、長井貞甫、酒多宗有、尾崎坊有庵、星野宗以、上林三入の8名が定めら、元禄年間に堀真朔、長茶宗味、辻善徳の3名が加えられて11名となった。
童謡の「ずいずいずっころばし」に以下のような歌詞がある。
「茶壷に追われて(茶壷道中が来るので家の中に入って)トッピンシャン(戸をピシャリと閉めてやり過ごす)、抜けたら(通過したら)ドンドコショ(やれやれと一息つく)」
顔を上げて御茶壷道中を見ることは許されず、庶民は通り過ぎるのをじっと待っていたようで、将軍家の権威、お茶の重要性を象徴するもの、と解釈されている。
御茶壺道中の制度は、徳川家光が1633年に制定してから1867(慶応3)年まで、235年間、続けられた。御茶壷道中は、多い時には1000人を超える人々が100個以上の茶壷を運ぶ、絢爛豪華な行列であったと伝えられている。
1698(元禄11)年に宇治で大火が起こり、優良な茶園や製茶のための施設が被害を受け、これを契機に、朝廷や幕府に奉納する茶を調達する御茶師にのみ許されていた覆下栽培が近在の農民にも認められるようになり、宇治の茶師たちにとっては大きな打撃となった。
上林記念館の建物の長屋門、上林春松家の建造物は、文化庁から「宇治の重要文化的景観」に選定され、日本遺産として文化庁が認定した「日本茶800年の歴史散歩」にも入っている。
「宇治・上林記念館」のWebミュージアムでは、茶壺、茶碗、花入れ、茶師の長門門などが写真入りで解説されている。
「上林春松家の歴史」は以下のURLで見ることができる。
「綾鷹物語」では、コカ・コーラ社が新しい緑茶飲料ブランドとして立ち上げた「綾鷹」、上林春松本店、緑茶にまつわる歴史を紹介している。
三休庵・宇治茶資料室
京都府宇治市宇治蓮華27-2
0774-21-2636
年中無休
9:00~17:00 無料
鎌倉時代の初期、栄西禅師が日本に伝えたお茶は、京都の北、栂尾の高山寺近くの土地に植え、その後、宇治でも栽培されるようになり、本格的に栽培する茶園がいくつも設けられた。
日本の一大ブランドとなった宇治茶では、その後、将軍や大名の庇護を受けた茶師が誕生して、お茶の生産、販売に大きな力を発揮。徳川将軍家御用御茶師の歴史を持つ三星園上林三入本店では、豊臣秀吉や徳川家康、千利休の書状やお茶壷道中に使われた道中箱など、宇治茶の歴史を伝える資料を数多く所蔵している。
三休庵・宇治茶資料室は、上林三入本店に伝えられた歴史資料の保存と活用を目的として、宇治茶の歴史や文化に関する研究の成果と、上林三入の資料を展示し紹介。諸大名好みの茶壷、豊臣秀吉愛用の金タレ茶臼、お茶壺道中で使用された道中箱、豊臣秀吉、徳川家康、千利休、細川三斎、小堀遠州、金森宗和、春日局、松平不昧公、鍋島勝茂、伊達政宗などの書状や古文書、店舗や作業風景の写真など、宇治の歴史を知ることができる。
福寿園 CHA遊学パーク
京都府木津川市相楽台3-1-1
0774-73-1200
休館日 金曜日、8月13日~16日、12月30日~1月5日
10:00~16:00 1600円
京都・木津川市に本社を置く製茶会社、福寿園は1790(寛政2)年の創業で、緑茶の茶葉、抹茶、ほうじ茶などの日本茶だけでなく、茶道に使う茶器、茶道具、紅茶や菓子類なども取り扱う。
福寿園 CHA遊学パークは見学者、体験希望者が楽しめる施設で、温室での茶栽培、研究開発も行っている。福寿園は茶をCHA (シー・エイチ・エー)と捉え、Culture(文化)、Health (健康)、Amenity (快適)を追求するティーライフ創造企業を目指す。
プロモーション室では、お茶の歴史や種類、製造工程、福寿園の歴史などを資料、パネル、映像などで紹介。世界の茶研究室では、世界各地で飲まれているお茶の文化圏を5つのブースに分けて展示し、世界のティーライフが分かるようテーブルセッティングもしている。
緑豊かな茶園やパーク内の見学、日本茶や世界のお茶に関する体験ができ、体験コースは茶摘み体験、石臼体験、ほうじ茶作り体験、お茶の淹れ方教室、世界のお茶体験、茶道マナー教室、抹茶一服体験など盛り沢山。
福寿園の社名の「福」は幸いの福、創業家の福井家の福、「寿」は108歳を指す「茶寿」にちなんでおり、茶園の「園」を付けて命名。茶の漢字を分解すると、十と十、それに八十八となり、合計すると108で、108歳は茶寿と呼ばれる。
福寿園は台湾、マレーシア、シンガポール、アメリカ、カナダ、ブラジル、ヨーロッパなど50カ国以上のスーパーマーケットや百貨店でお茶を販売して世界展開を進め、サントリーとのコラボレーションブランド「伊右衛門」も発売している。
愛媛県
霧の森茶フェ 新宮茶ミュージアム
愛媛県四国中央市新宮町馬立4491-1
0570-07-3111 (道の駅 霧の森)
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 4月~8月は無休 年末年始
10:00~17:00(入館は16:30まで) 無料https://www.kirinomori.co.jp/mori/chafe/
四国のお茶産業発祥の地は四国中央市の新宮で、ヤマチャという自然茶木が旺盛に育ち、お茶に適した気候と土壌が備わっている。四国のほぼ中央にある四国中央市は川之江市、伊予三島市、土居町、新宮村の2市1町1村が2004(平成16)年に合併して誕生した。
新宮茶にスポットを当て、新宮茶の誕生、農薬に頼らず育てられる新宮茶の特色などを資料、パネルなどで紹介。日本茶に関する図書を集めたライブラリーも備え、お茶に関する情報を提供する。街道茶店「聴水庵」では新宮茶を実際に飲み比べ、味の違いや淹れ方のポイントを霧の森の日本茶インストラクターが解説。コースによって所要時間、料金が異なる。
囲炉裏、堀炬燵、土壁、三和土など再現した古民家風の新宮茶専門カフェでは、甘み、渋み、苦みを感じられるお茶や、お茶を使ったプリンやケーキを提供している。
高知県
碁石茶公式サイト Webミュージアム
高知県長岡郡大豊町黒石343-1
大豊町碁石茶協同組合
0887-73-1818
碁石茶は、東南アジアに接する山間部(中国雲南省)から四国へ伝わったと言われており、江戸時代は土佐藩の主要生産物で、明治まで特産品であった。
無農薬、無添加、手作りで作っており、茶葉の間の空気の層が植物性乳酸菌を育てた完全発酵茶。天日干しで乾かす様子が碁石の黒のように黒い丸のため碁石茶と名付けられた。
昭和になり、過疎化と高齢化が進んで生産者が減少し、昭和50年代には1軒になり、全国で唯一、碁石茶を作り続けたのが、四国のほぼ中央部にある山間部の高知県大豊町の小笠原家だった。
昔から「胃腸にやさしい」とされる茶粥の愛好家たちから切望され、生産を続けていた。それが、近年の健康ブームや発酵食ブームで碁石茶が注目され、伝統の製法と発酵に不可欠なカビを他の農家に伝承し、生産量も増やして大豊町碁石茶協同組合を設立。碁石茶を商標登録している。
碁石茶のホームページでは、碁石茶の歴史、製法、乳酸発酵の仕組み、発酵茶の効能などを紹介し、「CMギャラリー」では碁石茶のポスターを掲載。碁石茶は、日本各地の豊かな食文化を守り育てるために設置された「本場の本物」ブランドに認定されている。
薩摩半島民俗文化博物館が「碁石茶の歴史と民俗」をインターネットで紹介。碁石茶の作り方・使い方、碁石茶製造民具(道具)の変容表を公開。
福岡県
茶の文化館 展示エリア
福岡県八女市星野村10816-5
0943-52-3003
休館日 火曜日(祝日、5月、夏休み期間中は開館)
10:00~17:00 無料
福岡県八女市を中心とする筑後地方は八女茶の産地で、「奥八女」と呼ばれる黒木町、上陽町、矢部村、星野村は急峻な山と清流があり、寒暖差が大きく、より高品質なお茶ができる。
「星のふるさと公園」がある星野村は大分県との県境に位置する観光スポットで、棚田や茶畑が広がる里山の風景は「日本の里100選」に選定され、「星のふるさと公園」にある「茶の文化館」の展示エリアでは、お茶の生育、製法、種類などをパネルやモニターで分かりやすく紹介。
明から帰朝した臨済宗の僧、栄林周瑞は応永年間(1394年~1428年)、八女市黒木町にあった岩の上で座禅を組んでいた。その姿を見た庄屋の松尾太郎五郎久家は寺を建てて周瑞に寄進したのが霊巌寺の始まりで、明から持ち帰った茶の実を久家に与えたのが八女茶の起源とされる。
隣接する黒木町の霊巌寺から八女茶の栽培が星野村に伝わり、明治になって、本星野(地区名)の末﨑喜市が京都の宇治で玉露の製法を学び、「星野玉露」が1904(明治37)年に始まった。
藁覆い(わらおおい)による被覆栽培、手摘みによる摘採を守り続け、最高品質の玉露を生産。丹精込めて育くまれた玉露は特に「伝統本玉露」と名付けられ、「玉(宝石)の露」と呼ぶにふさわしい馥郁たる香り、濃厚な旨みを持つ。
お茶の楽しめる呈茶ホール、お茶作りを体験ができる八女茶工房、本格的な茶室、食事処の八女茶寮などがあり、呈茶ホールで伝統本玉露をしずく茶(40度ほどに冷ましたお湯を茶椀に注ぎ、ふたをしてじっくり浸出し、ふたを少しずらして飲む)や、抹茶、和紅茶を味わえる。
八女茶発祥600年、伝統を継承する。 Webミュージアム
福岡県茶業振興推進協議会
福岡県八女市亀甲55-1
0943-25-2887
八女茶は、今から約600年前の1423(応永30)年(室町時代中期)、中国の明国で禅の修行をして帰国した栄林周瑞禅師が持ち帰ったお茶の種子を、筑後国鹿子尾村(現・八女市黒木町笠原)の庄屋、松尾太郎五郎久家に与え、製茶法を伝えたことに始まるとされている。
江戸時代には大坂などに販売し、宇治式の栽培、製茶法を取り入れ、明治以降、八女茶は外貨を稼ぐ重要な輸出品となった。現在、福岡県は栽培面積が全国5位で、荒茶生産量は全国6位。玉露の生産は全国3位。
八女茶の情報サイトは福岡県茶業振興推進協議会が運営しており、八女茶の歴史、八女茶の特徴、八女茶が出来るまで、「福岡の八女茶」生産地、お茶の種類、お茶の効果・効能、美味しいお茶の淹れ方、八女茶の生産概要・生産基盤を紹介。
動画の「八女茶の特徴」「八女茶の種類」「伝統本玉露」などもアップしている。
★お茶の里記念館 閉館
福岡県八女市黒木町笠原9528-1
八女茶発祥の地である黒木町の霊巌寺の近くにあり、お茶の歴史を伝える資料展示室と黒木町特産品売場があったが、閉館。
霊巌寺の開祖、栄林周瑞が中国の明から帰国し、持ち帰った茶の実を、寺を寄進した庄屋に与えたのが八女茶の始まりとされる。「奥八女」と呼ばれる黒木町、上陽町、矢部村、星野村は急峻な山と清流があり、寒暖の差が大きいことから高品質なお茶を生産してきた。「お茶の里記念館」が所蔵していたお茶関連の資料は八女市が保管しており、奥八女にある施設を利用し、期間限定で展示されることもある。
佐賀県
うれしの茶交流館「チャオシル」展示室
佐賀県嬉野市嬉野町大字岩屋川内乙2707-1
0954-43-1991
休館日 火曜日(祝日の場合は翌平日) 年末年始
9:00~17:00 展示室と工場見学は無料
うれしの茶交流館「チャオシル」はお茶を学び、お茶に触れ、お茶を味わい、人との交流を通じてお茶を知ることができる施設で、嬉野市茶業研修施設、嬉茶楽館の横に2018(平成30)年に開館した。
展示室ではお茶の歴史、うれしの茶の誕生、うれしの茶の特色、お茶ができるまでの工程などを学べ、お茶製造の道具、お茶を運ぶ手段などを展示。蒸し製玉緑茶と釜炒り茶の加工工程などの工場見学もできる。日本での臨済宗の開祖、明菴栄西は廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えた「中興の祖」とも言える存在で、2度目に宋に渡った栄西はお茶の種を持ち帰り、1191(建久2)年に肥前の霊仙寺(佐賀県吉野ヶ里町)で栽培を始め、貴族や僧侶だけでなく武士、庶民にも、お茶を飲む習慣が広まるきっかけとなった。
栄西は『喫茶養生記』を著わして、お茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする茶の効用、病気への用法を説き、お茶の魅力を伝えている。お茶は美術、工芸、建築、造園、文化に大きな影響を与えており、茶摘み体験、釜炒り体験、お茶の淹れ方教室、嬉野温泉の温泉水を使った茶染め体験など、お茶に関するさまざまな体験ができる。
Ureshino Green-Tea Webミュージアム
西九州茶農業協同組合連合会
佐賀県嬉野市嬉野町大字下野丙1783-1
0954-43-3228
佐賀県と長崎県は有田焼、伊万里焼、波佐見焼など焼き物で有名だが、「西九州のお茶どころ」としても知られる。嬉野町を筆頭に、その周辺でお茶の栽培が広く行われており、「うれしの茶」の産地となっている。
「Ureshino Green-Tea」では西九州の茶所・見所、お茶のチカラ、品質にこだわるうれしの茶、うれしの茶Q&Aなどを掲載。うれしの茶を使ったボディソープ、シャンプーなどスキンケア商品なども紹介。
熊本県
くまもと茶Navi Webミュージアム
くまもと茶ブランド確立対策協議会
熊本市中央区水前寺6-18-1 熊本県農産園芸課内
096-333-2390
熊本県の荒茶生産量、栽培面積は全国7位で、国内有数のお茶の産地。蒸し製玉緑茶の生産が県内一円で行われていて、玉緑茶の生産量は全国3位。蒸し製玉緑茶は勾玉(古代の日本の装身具で、Cの字のように曲がっている)のような形状で、グリ茶とも呼ばれる。グリ茶は全国トップを競う生産量を誇っている。
煎茶は球磨、菊池、芦北地域(熊本県南部)などで生産され、釜香と呼ばれる、独特の香ばしく爽やかで、心地よい香りが特徴の「釜炒り茶」は山都町(熊本県東部にある町)や天草市を中心に生産されている。
「くまもと茶Navi」では熊本県産のお茶の種類、熊本県産のお茶の産地を掲載し、「くまもと茶」の動画も配信。
宮崎県
太陽を丸呑み みやざき茶 Webミュージアム
みやざき茶推進会議
宮崎県宮崎市橘通東2-10-1 (宮崎県庁・農産園芸課内)
0985-65-3334
「太陽と緑の国」と称される宮崎県は温暖な気候と適度の降雨、肥沃な大地に恵まれ、お茶の栽培に適した環境で、茶園の面積は全国7位、荒茶生産量は全国4位のお茶大国となっている。
生産している場所は沿海から標高700メートルの山間地まで広く分布し、宮崎県内全域で煎茶と蒸し製玉緑茶が生産され、一部で碾茶(抹茶の原料となるお茶)、紅茶も生産。西北山間地は全国一の「釜炒り茶」の産地として知られている。
みやざき茶推進会議が運営するホームページの「太陽を丸呑み みやざき茶」では、みやざき茶の概要、みやざき茶の歴史、宮崎県内の品種、宮崎県内の生産地などを紹介している。
鹿児島県
ミュージアム知覧
鹿児島県南九州市知覧町郡17880
0993-83-4433 (南九州市文化財課)
休館日 水曜日(祝日は開館) 年末年始 7/1~3(燻蒸のため)
9:00~17:00(入館は16:30まで) 300円 知覧特攻平和会館との共通券 600円
知覧を含めた南薩摩の文化を多くの人々に紹介するため、1993(平成5)年に開館した歴史資料館で、南の琉球文化と、北の大和文化が交錯して発展した南薩摩独特の文化に焦点を当てて紹介している。「交錯する文化の波」をテーマに、民俗展示室、歴史展示室、特別展示室、ダイナミックな映像と音で迫力があるシアターで構成され、武家屋敷、知覧城、弾圧されながらも念仏を唱えた薩摩の「隠れ念仏」などを分かりやすく紹介。
南九州市で生産されているブランド茶の知覧茶の展示、紹介にも力を入れており、お茶の収穫で使用されていた「茶摘み籠」、収穫した茶の葉を乾燥させるために使用されていた「茶べろ」などが展示されている。知覧茶は、南九州市の知覧町、川辺町、頴娃町で作られたお茶で、温暖な気候と桜島の火山灰で水はけがよい大地で育成されたお茶は、お茶を淹れたときの深い緑色と、マイルドで飲みやすい味わいが特色。
畑の郷 水土利館
鹿児島県南九州市頴娃町牧之内15025-8
0993-36-3911
休館日 土曜日 日曜日 祝日 年末年始
9:00~16:00 無料 要予約 予約時のみの開館
畑の郷 水土利館は南薩摩の畑の歴史、お茶の歴史、お茶の産業に関する展示があり、日本茶アドバイザーの指導でお茶の美味しい淹れ方を学べ、お茶の手揉み体験ができる。
鹿児島県の茶業の始まりはおよそ800年前、金峰町阿多・白川(南さつま市)に平家の落人が伝えたという説や、足利時代に霧島山の山麓にある吉松町(鹿児島県姶良郡湧水町)の般若寺に宇治から茶種子を取り寄せて寺の境内に植えて門徒に製法を伝授したのが始まりという説などがある。
江戸時代の島津藩政時代にお茶の栽培が奨励されたが、本格的な茶の栽培や生産の奨励は明治になってから。知覧を治めていた殿様、佐多島津氏から払い下げられた土地を明治初期に開墾し、茶畑を拡大した。鹿児島県が本格的に茶の生産を推進するのは1965(昭和40)年ごろで、静岡県や京都府など他県の茶業と比べると遅い。
南九州市の知覧茶の他、志布志市の志布志茶、霧島市の霧島茶など茶園を拡大し、平坦地が多いこともあって生産性が高く、現在、日本一の静岡県に肉薄するお茶の生産地になっている。「畑の郷 水土利館」では、3Dシアターでの短編映画(310円)の上映、お茶の手揉み体験(500円)などを実施している。
ようこそ! CHIRAN TEA Webミュージアム
南九州市茶業振興会
鹿児島県南九州市知覧町郡17880
0993-58-7070
2007(平成19)年に頴娃町、川辺町、知覧町が合併して南九州市が誕生し、南九州市は市町村単位で「日本一のお茶生産量を誇る町」となった。
知覧茶、頴娃茶、川辺茶という、南九州市の茶銘柄を2017年、「知覧茶」に統一して新たな一歩を踏み出す。南九州市の茶業は約350年の歴史を経て、国内最大級のお茶の産地となった。
「ようこそ! CHIRAN TEA」ではお茶の起源、日本そして世界の茶の歴史、知覧のお茶、日本茶の楽しみ方などを紹介している。
かごしま茶について Webミュージアム
鹿児島県茶業会議所
鹿児島県鹿児島市南栄3-12
099-267-6063
かごしま茶は燦々と輝く太陽の恵みと緑豊かな大地に育まれ、コクと香りに特徴があるお茶で、鹿児島県は静岡県と生産トップを競うお茶の一大産地になっている。抹茶を作る碾茶の生産は全国トップ。
鹿児島県茶業会議所のホームページでは「かごしま茶について」の他、「データ&資料」「お茶の基礎知識」「かごしま茶を買える店・飲める店」などの情報を掲載している。
かごしま茶navi Webミュージアム
鹿児島県茶生産協会
鹿児島県鹿児島市鴨池新町10-1 鹿児島県庁農政部農産園芸課内
099-286-3200
かごしま茶は鹿児島の豊富な日射量でカテキン類(渋味成分)が増え、摘採の前に黒色の資材で被覆して甘味成分のアミノ酸の増加を促し、甘みと渋みの調和がとれた濃厚でコクのある風味が特徴。一方、県内北部の高冷地では香り豊かな茶が生産され、多種多様なお茶を生産している。鹿児島県茶生産協会は、茶業経営の向上発展を図り、鹿児島県の茶産業を振興する団体で、ホームページの「かごしま茶navi」で情報発信をしている。
お茶の種類、お茶の成分と効能、鹿児島茶業の歴史と歩み、茶の生産地としての鹿児島、鹿児島茶業の特徴などを写真やグラフなどで解き明かし、お茶ができるまでを動画で紹介。美味しいお茶の淹れ方、お茶を使ったレシピ、お茶のマメ知識を掲載し、鹿児島県茶生産協会のマスコットキャラクターの「鹿児茶丸」の「ペーパークラフト」をダウンロードすれば、組立説明書と型紙が提供され、立体の人形が作れる。