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『草枕』論3:ラカンの想像界は非人情
想像界は意味の世界で自由で感情のコントロールの効く領域なのです。
漱石の考える想像界は損得や利害、権力、時間空間のない世界なのです。
これはなにも特別なものではなく夢の世界なのです。
また『草枕』の画工の想像界を引用すればフロイトの自由連想の世界でもある。
『草枕』の画工は茶店の婆さんと馬子の源さんとの話を偶然聞くことになりました。
それは那古井の嬢さまとよばれる宿屋の女将のことで、かっての花嫁の姿の話でした。
画工は茶店の婆さんと馬子の源さんとの話からその当時の様子を想像したのですが花嫁の顔がどうしても浮かんできません。
「不思議な事には衣装(いしょう)も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影(おもかげ)が忽然(こつぜん)と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。」
ここで画工は「花嫁の顔」が連想出きないのでイメージ探しの旅にでます。
それを漱石は次にようにいう。
「衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗(きれい)に立ち退(の)いたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧(もうろう)と胸の底に残って、棕梠箒(しゅろぼうき)で煙を払うように、さっぱりしなかった。」
意識していなくても心の奥の鉱脈でイメージは成長してゆくと漱石は考えるのです。
そのイメージはどのようにして増殖してゆくのか刺激の無い限り増殖は不可能である。
画工の「花嫁の顔」の連想は意識していなくっても無関係と思われる「馬の鈴」「馬子唄」という音のリズムによって継続してゆくのです。
それは画工はもとより茶店の婆さんが年中日に何度も聞いているリズムである。
「『また誰ぞ来ました』と婆さんが半(なか)ば独(ひと)り言(ごと)のように云う。ただ一条(ひとすじ)の春の路だから、行くも帰るも皆近づきと見える。最前逢(お)うた五六匹のじゃらんじゃらんもことごとくこの婆さんの腹の中でまた誰ぞ来たと思われては山を下(くだ)り、思われては山を登ったのだろう。」
茶店の婆さんは毎日無意識に「馬の鈴」、「馬子唄」を聞くたびに「花嫁の顔」を連想しているのです。
一人のときはすぐに消えてしまうが馬子の源さんが居る時は意識に現れるのです。
「『御前。あの那古井(なこい)の嬢さまと比べて御覧』
『本当に御気の毒な。あんな器量を持って。近頃はちっとは具合がいいかい』
『なあに、相変らずさ』
『困るなあ」と婆さんが大きな息をつく。』」
これはラカンによれば「馬の鈴」、「馬子唄」のリズムが「花嫁の顔」と象徴界に変換されて無意識の状態おかれるのです。
いわゆるイメージが象徴界である言語に交換されると同時に無意識の領域にしまわれるのです。。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。