『無門関』第二十八則 久響龍潭
無門禅師の本則妙訳
徳山が龍潭に教えを受けていて、夜になったので「龍潭が夜も更けたのでもう帰りなさい」と言った。
徳山は挨拶をして僧堂を出た。
辺りが暗かったので、「外は暗いです」と言った。
それで龍潭は明かりを徳山に渡そうとした。
徳山が受け取ろうとした時龍潭はその明かりを消した。
その瞬間に徳山は悟った。
それで徳山は龍潭に一礼をした。
そこで龍潭は「徳山にどのような道理を自覚したのか」と問うた。
「只今より天下の老師の言説を疑わない」と徳山は言った。
翌日徳山は大切にしていた金剛経を取り出して全て焼いてしまって、感謝して去ってしまった。
説明
本文はとても長いので妙訳にしましたが重要と思われるところは残しました。
この公案の要点は紙燭と言って電灯の無い時代に用いられる明かりで、松明のことのようです。
松明はオリンピックでもギリシャから国内に運ばれ全国を回るのですが、もっと簡単な紙にロウをしみ込ませたものでした。
この松明は息を吹きかければ直ぐに消えるものでした。
龍潭は松明を徳山に渡そうとした瞬間に消してしまったのです。
これは簡単に実験しようとすれば出来ます。
暗い部屋の中で明かりを消せばよいのです。
思ったより暗かったのではないでしょうか。
しかし今いる部屋の何処にいて、何方の方向を向いて立っているかは解っていると思います。
これが金剛経の中に出てくる我々凡夫は過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得の教えなのです。
我々には記憶があり、過去の事も憶えているにもかかわらず、何故過去心不可得なのでしょうか。
過去の記憶を即座に取り出せないと言うのが正解です。
今居る数秒前のその場の状況、机の上に何が置かれていましたか、全て憶えていますかと言うのが過去心不可得なのです。
時間をかければ少しは思い出すことは出来ても全ては出来ないとおもいます。
徳山は数秒前のその場の状況を憶えていたことを自覚したのです。
松明が消され一面は真暗になって見えなくなったのです。
しかし数秒前は明るかったのです、数秒間の間に場の状況が変化したでしょうか。
建物の位置や構造に変化は無かったと考えるのが普通です。
徳山は過去心不可得でないこと知った証拠がこの公案に書かれているのです。
その証拠と理由をあげるのがこの公案の目的なのです。
人間は目的のために行動を選択すると考えれば未来心可得でなければなりません。
徳山が命より大切にしていた金剛経を焼却してしまったのには価値観の選択があったと考えられるのです。
もうお解りと思います命と金剛経とどちらが大切ですか。
金剛経はまた手に入れようとすれば可能なのです。
名誉という価値観を守るために命を捨てた人は歴史上にいくらもいます。
未来心可得とは行為的選択にあったのです。
逆説に成りますが命を捨てる覚悟があって初めて損得、価値の高い低いの二項対立から自由になれるのです。
この公案、久響龍潭は無門禅師の頌みてその全体像が解ってきます。
無門禅師の評語の解説は過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得であって重複になるので省略しました。
無門禅師の頌妙訳
言葉で聞くよりも場面を見ることに越したことはない。
場面を見るよりは言葉で知ることに越したことはない。
徳山は顔面を地面に打ち突けずに済んだが。
眼が見えなくなったようだ。
説明
徳山は松明を消されて予測不可能(未来心不可得)な出来事に出会って、一瞬足元を誤ってまともに顔面を打ち突けるところだった。
ところが数秒前のその場の物の配置を憶えていて体を回転させて受け身の状態になり衝撃を避けた。
それを過去心可得と言って記憶を瞬間に思い出すことが出来るのである。
また未来心可得とは体を回転させて受け身の状態にななれば大事な顔面を外傷から守ることができるのである。
ここで最も重要なことは手に持っていたと考えられる金剛経を守ろうとしなかったことである。
一瞬でも金剛経の事が気になったら過去心も未来心も現在心も失われていたであろう。
言葉で聞くよりも場面を見ることに越したことはない。
場面を見るよりは言葉で知ることに越したことはない。
この文の意味するところは言葉や直接目で見ていないが真相無相と言って第三の目で観ているのだというのです。
夏目漱石もこのような経験を『草枕』で次のように表現しています。
「余の右足は突然坐りのわるい角石の端を踏み損くなった。平衡を保つために、すわやと前に飛び出した左足が、仕損じの埋め合せをすると共に、余の腰は具合よく方三尺ほどな岩の上に卸りた。肩にかけた絵の具箱が腋の下から躍り出しただけで、幸いと何の事もなかった。」
ここで絵の具箱を飛ばしてしまったのがよかったのです。
『草枕』の主人公である画家が絵の具箱をもし失くしてしまったら本日の目的は果たせなかったことになります。
絵の具箱を必死に守ろうとするでしょう。
そのために注意力が欠けて怪我をしては何もなりません。
画工は初めて通る道なのです、それなのにバランスを取り損なって倒れたかも知れないのに岩の上に上手く座るなんて、地形や岩の位置を憶えていなければ出来ない芸当です。
憶えているんです人間は言葉を使わず記憶していて、それを実相無相の観と言います。
時時刻刻変わる地形や岩の位置は言葉では記憶出来ません。
なぜこのように言えるのか私が同じ経験を偶然ではあるがしたのであった。
私の場所とはもっと複雑なところでその地面を正確に憶えていなければなりませんでした。
片足の自由を失って正面や右に飛び出せば激突です、だから左に回転するように衝撃を回避しいたのでした。
無心に成ることです。幸い怪我はありませんでした。
参考引用
『公案実践的禅入門』秋月龍眠著 筑摩書房
『無門関』柴山全慶著 創元社
『碧巌録』大森曹玄著 柏樹社
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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