奈良の大仏様はどう教えられてきたのか?(13)大仏よりも薬・病院?②ー歴史授業の進化史・古代編
もくじ
(1)はじめにーならの大仏さま
(2)天皇はいばってる?ー金沢嘉市氏の授業
(3)民衆を苦しめた?ー山下國幸氏の授業
(4)壮大な無駄?ー向山洋一氏の授業
(5)大仏よりも薬・病院?ー米山和男氏の授業
(6)オールジャパン・プロジェクトー安達弘の授業
(7)日本人と天皇と王女クラリス
(8)三島由紀夫と歴史教育
(5)大仏よりも薬・病院?ー米山和男氏の授業②代案を出す子どもたち
では、4の「聖武天皇と大仏」の授業記録を見てみよう。(98~109ページ)
米山氏はこの時間の子どもたちの意見の展開を5つの分節にまとめている。
1「聖武天皇は天然痘や貴族の争い、日照りなどの社会不安がなくなるように仏に祈るため、大仏をつくった」
2天皇の願い(詔)と実際の造営の様子から「現実と命令が違うのでは」
3「一刻も早くつくりたかったのではないか」
4「大仏をつくるより薬や医者の方が、天然痘を治せるのではないか」
5「仏にたよっていくしかなかったのではー」(109~110ページ)
まず(分節1)では「詔」の内容をふまえた意見が出されている。
「聖武天皇は幸せを願っている」
「皆の力を入れて」
「病気とか、そういう争いをなくすため」
次に(分節2)他の資料による「詔」との「矛盾」が指摘される。
「高いところから落ちたり死んだりしている人がいるのにね、その大仏をつくって、ほんとに平和になるのか?」
「いつか仕事をね、ほって逃げ出そうとするとね、なんかムチで三十回とかなんとかあったでしょう。」
「聖武天皇がね、国民に協力をしてもらうためにやったんでしょう。なのに、なんでむりやりやらせているのかなァ」
「雨の日以外はこき使って働かせるなんて、現実と命令とがまるっきり違っている」
(この授業でも事実とは思えない強制労働をイメージさせる教材が使用されているようである。60~70年代に作られた「疑わしい」教材は根深く現場に浸透している)
それに対して(分節3)「詔」と「資料」の「矛盾」に整合性を持たせようとする意見が出てくる。整合性を持たせようとする子どもたちの発言はおのずと聖武天皇の視点で大仏造りを見ることになっている。
(大仏造営が止まったり中途半端に終わってしまうのは困るので)「無理やりっていうか、しょうがないかもしれない」
「そういう平和な国にするためには、やっぱりいやでも人を連れてきて、早くつくらせようとしたんじゃないかな」
「早くつくらせたいから現実はこうなっちゃった」
「この行基を大僧正という僧の一番高い位につけて、それで味方みたいな感じにして従わせたんじゃないかな」
(分節2)に当たる部分での子どもの「詔」に対するネガティブ発言はどんな資料が根拠になっているのか気になるところだ。「詔」自体の中にも、別の資料の中にもポジティブなものはたくさんあるのに・・・。では(分節4)からもう少し詳しく子どもの意見を見てみることにする。二人の子どもの意見を見てみよう。
長谷59 ぼくも、調べていくうちに、同じ問題出たんだけど、やっぱり、大仏つくるっていっても、全部つくりあげるのに十四年もかかったでしょう。でも、十四年近くかかって大仏ができてもたぶん、そのころにはもっと多くの人が死んでいると思うの。だから、ぼくの考えたのは、そういうふうに十四年もかかるんならね、医者みたいな人たちを集めたり、医学みたいのを研究する人たちを集めてきて、いまでいうと赤十字みたいなものをつくって、天然痘を治す薬を発明するように心がけたり、中国がね、けっこう文化が進んでいたから中国にわたって、そういう研究をしたりすることの方がぼくは大仏をつくるよりもいいと思うし、薬をあたえた方がいいと思う。
手島62 それに、あのそこにね、日照りとか天然痘とかあるけど、私だったら、日照りっていったらやっぱり大仏づくりなんかよりも年がかからないから井戸をほるとか、天然痘だったら、さっき長谷くんとかもいったけどね、お医者さんつくったり、勉強させに中国へ行かせたり、病院のような施設をつくったりするし、貴族の争いっていうことはね、聖武天皇は天皇なんだから厳しく命令すればいいでしょう。だから、私だったらそうやる。
この二人の子どもの発言は授業の展開上、二つの点で重要である。
①大仏よりも薬・研究・病院の方が大事だ、というの現代の目で奈良時代を見ていることになる。米山氏の言う「矛盾」である。これについては後に詳述する。
②しかし、教師は二人の発言内容にある間違いを補足できる史料を用意すべきである。「薬をあたえた方がいいと思う。」に対しては第二章に紹介した『続日本紀』神亀三年(七二六)六月十四日に薬の件も含めて医療政策の充実を聖武天皇は命令しているし、「病院のような施設」は光明皇后が悲田院・施薬院を設けている。子どもたち自体のリサーチがここまで及ばないならば教師が用意しておくべきだろう。
この二人の発言は「矛盾」を整合させようとした意見に対しての「そもそも論」である。つまり、そもそも大仏なんて役に立たないというわけである。第二章に見た山下氏・向山氏の展開と同じだ。
しかし、ただ単に役に立たないと言うのではなく、現代から見た目ではあるが代案を示しているところに米山学級の子どもたちの素晴らしさがある。
もし米山氏の授業がここで終わるならば山下・向山両氏と同じ問題が残ってしまうが、米山氏の授業はここからもう一段階ある。この次の段階まで進んでいることが氏の授業のすぐれているところである。
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