奈良の大仏様はどう教えられてきたのか?(16)大仏よりも薬・病院?⑤ー歴史授業の進化史・古代編
もくじ
(1)はじめにーならの大仏さま
(2)天皇はいばってる?ー金沢嘉市氏の授業
(3)民衆を苦しめた?ー山下國幸氏の授業
(4)壮大な無駄?ー向山洋一氏の授業
(5)大仏よりも薬・病院?ー米山和男氏の授業
(6)オールジャパン・プロジェクトー安達弘の授業
(7)日本人と天皇と王女クラリス
(8)三島由紀夫と歴史教育
(5)大仏よりも薬・病院?ー米山和男氏の授業⑤復原への意志
終戦直後に文部省で小学校社会科の学習指導要領や教科書を作成し、社会科の初志をつらぬく会の創始者の一人でもある上田薫氏は、歴史教育には以下の三つのタイプがあるとしている。(上田薫『人間形成の論理』上田薫著作集2 黎明書房 184ページ)
Ⅰ実証主義的な立場
客観主義ともいうべき史料尊重の立場。史観の存在を無視するところに誤りがある。
Ⅱ政治的道徳的立場
これまでの歴史教育はほとんどこの類型。一つの価値観が絶対化される。
Ⅲ問題解決的立場
問題解決学習による経験主義社会科の考え方による。どこまでも史観の介入を認めることにおいてⅠと異なり、あくまでも史観を固定しないことにおいてⅡと区別される。すなわち史観の相対性が確認されるところにこの立場の特質がある。
つまり、ⅠとⅡの問題点の克服がⅢの社会科による歴史教育であるというのである。上田氏はいかなる歴史も史観抜きで見ることはできないが、かと言って一定の史観だけを押し付けることもできないので、みずから史観を選び、また史観をつくる力を与えることが歴史教育の任務であると言う。
そしてこのような原理に対する自覚的な認識をもたせることの困難な小・中学校の段階では、史観による統一から解放された学習、すなわち子どもの現在の問題から出発する学習によって歴史的なものに触れることが、もっとも適切であると考えられます。(上田薫『系統主義とのたたかい』上田薫著作集9 黎明書房68ページ)
子どもが歴史についての力をもつということは、まずなによりも、歴史的にものをとらえることができるということ、歴史的な考えかたが十分にできるということでなくてはなりません。歴史的知識は、そのための手足になるものです。いかに手足が豊富にそろおうとも、それを使いこなす力が欠けていては無意味です。そしてこのような根底的な力は、子どもが現在の問題の解決と切実にとりくむところにこそ養われるというべきです。現実の問題はすべて歴史性をもたぬものはないのですから。(同上68~69ページ)
氏は「現在の問題から出発する」学習が史観からの解放であり「現在の問題の解決と切実にとりくむ」ことこそが歴史的な見方・考え方を育てることになると主張している。引用にある氏の発言の背後には歴史学を絶対視する系統主義を批判し「歴史教育はあくまで教育、すなわち人間形成の問題」(69ページ)であるという問題意識がある。
だが、これだけでは説明不足である。「現在の問題」と過去の歴史がどうつながるのか、が不明だからだ。この不明・不足を埋めるキーワードは先に見た米山氏が提示していた「矛盾」である。米山氏は「矛盾」を「現在の自分の生活感覚からいくと考えられないこと」があるとそこに「矛盾を感じ、やがて問題が生まれてきます」と言っていた。
じつは、戦前~戦後の文芸評論家・亀井勝一郎氏も「矛盾」という言葉を使って現在と過去の関係を次のように語っている。繰り返しになるが引用する。
私は日本の上代美術に興味をもってから、上代史を学ぶ機会が多かったが、聖徳太子を大へん敬愛した。つまり史上の典型的人物と邂逅したわけで、そのときも和歌森氏の指摘されるように時代とか固有の課題を注目したが、次のような矛盾を味わうのである。それは出来るだけ在りしままの姿に接しようという復原への意志、時代の特性や雰囲気を復原してみようという努力と、同時に時代を離れて、「現に生きている人と会うように」といったときの直接対話からくる親密感と、この矛盾である。(亀井勝一郎「歴史家の主体性について」『現代史の課題』岩波現代文庫 38ページ)
亀井氏は歴史上の人物との邂逅するときに、「復原への意志」「復原してみようという努力」をする。なぜなら、できるだけ「在りしままの姿」「時代の特性や雰囲気」のもとで出会おうとするからである。つまり、歴史上の人物に現代に来てもらうのではなく、自分がその人物の住むと過去へとタイムトラベルするのである。そこには米山氏の言う「現在の自分の生活感覚からいくと考えられないこと」がいくつもあるだろう。そんな中で過去の人物とコミュニケーションがとれるのだろうか。だが、亀井氏は「現に生きている人と会うように」親密になれるというのである。
現在と過去の埋め難いちがいーこれが一つめの「矛盾」である。そして、現在と過去の変わらぬ共通性ーこれが二つめの「矛盾」である。現在と過去は二重の矛盾を持っている。「復原」という一つめの「矛盾」を埋める努力と「現に生きている人と会うように」という二つめの「矛盾」を生かすことが「現在の問題」と過去の歴史をつなげることになる。
過去とは別離であり、愛情の消滅のことであります。どんなに歴史上の知識をもっていても、私の謂う邂逅なく、生命のふれあいがなかったならば、それは「過去」なのです。反対に生身の師のごとく、友のごとく、史上の人物とつきあうならば、それはつねに「現存」なのです。(亀井勝一郎『愛の無常について』角川春樹事務所 ハルキ文庫41ページ)
この亀井氏の邂逅論で補えば、上田氏の「現在の問題」と過去の歴史のつながりが見えてくる。社会科における歴史学習は「生身の師のごとく、友のごとく」同列目線で歴史上の人物とつきあうことで過去の問題は現在の問題となり、正しい意味での歴史の問題解決となるのである。
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