見出し画像

自分の言葉を語れるようになると、人生がグッと動きはじめる

最近、言葉の力を実感することがたくさんあって。

わたし自身は、
言葉に興味があって、文章を書くことも好きで、
経験から学んだことを伝えたいという思いがあって、
書いた文章を褒められることが増えてきたことで、
まさに今も「書くこと」に向き合っているのですが、

書きはじめたからこそわかった「わたし」がいて、
自分の想いを書いたからこそ出逢えた人がいて、
書くことを通して、自分の夢が叶うことがある、
とnoteを通して知ることになりました。

言葉って、きっとみんなが使える魔法だから、「自分の言葉が語れること」の意味とか希望みたいなもの、そしてわたしの経験をここで書いてみようと思います。


「わたしらしい文章」が好きになれなかったわたし

もともと、わたしは自分の文章があまり好きではなくて。わたしの文章に埋め込まれていた「わたしらしさ」の意味とか価値が全然わからなかったのです。

例えば、会社でパンフレットやWebページにコピーを書くとき。

「よしこさんが書いたって、文章見たらすぐわかる気がする」
「なんか編集しただけでも、よしこさんっぽさが出てるよね」

今思えば別に悪いことではないのですが、当時のわたしは、

いやいや、情報資料にわたしらしさが出てるってどうなん…。

と思っていたし、バイネーム(個人名)で書いてない文章なのだから、むしろ個性がないものの方がいいって思っていました。

文章における「わたしらしさ」って、ある意味クセがあるってことで、人によっては読みにくいってことにもなり得るし、ターゲットを絞ることにもなってしまうから。

だから、もっと客観的で、俯瞰的で、温度感を感じさせない文章を書いたほうがいいのかなって迷っている時期がありました。


けれど、実際のところは変えようと思っても変えられなかったんです。

なぜなら、「自分が本当に伝えたいことを、自分が一番いいと思えるかたちにして届ける」ということには、自分なりのこだわりがあったから。

手を抜いているわけではなかったし、自分が伝えたいことに向き合って、ちゃんと自分の言葉を使って、自分の手で編んだ文章だったから。

もちろんその発行物の責任者の意見が一番強いのですが、「わたしがいいと思うものは、けっこういいんだよな」ってどこか勝手に思っていました。笑


わたしは小さいころから音楽が好きだったこともあって、音楽を奏でるように文章を書いています。

自分で読んでいて不協和音っぽく感じるところはなるべく治すようにしていて、「わかりやすく、心地よく読んでもらえるように」という想いは、ずっと持っています。

それから、頭に知識を入れるというよりは、「なるべく心に響く言葉を届けたい」とも思っていて。うまく弾くより、その人の中にあるものに響き合いたくて書いているのだと思います。

だからこそ、語りかける口調だったり、くだけた口語になってしまうけれど、ちょっとでもそのときの感動が伝わりやすい文章になればいいなという想いがあります。


さて、それらが「わたしらしい文章」であり、「わたしの良さ」だと認識できるようになるのは、何がきっかけだったのか。

コロナ直後に部署異動をして、新しいチームで仕事をするようになったとき。

「よしこさんの文章って、いい日本酒飲んだときみたいな感じがする。すっと飲めて、後味がすごくいいんだよね」
「よしこさんのインタビューって、その人の物語にちゃんとスポットライトが当たっているし、長くてもさらっと読めちゃう」
「このキャンペーンのメッセージ、もうちょっとエモい感じにしたいんですが、アレンジできます?」

そんなふうに言われるようになったのです。


振り返ってみれば、この前後で2つの新しいことを経験していて。

一つは、自分のブログをはじめたこと(noteではない)。「自分の言葉で、自分のことを、自由に語る」ということを、仕事以外でやり始めたのです。

もう一つは、教育メディアでライターをはじめたこと。バイネームでライターというお仕事を経験したことです。

たぶん、わたしの文章自体はそれほど変わっていないのですが、自分が書いたものに具体的なフィードバックをもらえるようになったんですよね。

周りの言葉を受けて、「そういうこだわりが自分の良さだった」ということにはじめて気づいて、それが少しずつ自信になっていったのです。

そして、「書くべきものを書く」のではなく、「自分が書きたいことを書く」ということを始めたことで、「自分が書きたいことってこういうことなのか」ということがわかってきた時期でもありました。

わたしらしさを表現していくから、必要な人に出会える

なんとなく自分の書きたいことがなんとなくわかってきたこと、加えて自分の文章が少しずつ好きになっていったことで、

自分の経験を、自分の言葉でもっと伝えていこう。

と、思うようになっていきました。

むしろ「書きたい」という気持ちが湧いてくるようになっていたのです。

けれど、会社員をしているときは、書きたい気持ちとは裏腹に、ほとんど自分のことは書けずでした。

とにかく時間がなくて、自分に没入する時間が取れなかったから(あとでそれは、ただの言い訳だったということに気づくのですが…)。


そうしてうだうだしていたのですが、2年前の秋に会社を辞めてから、noteをはじめることにしました。

はじめは「時間があれば書ける!」と思っていたのですが、最初はまったく書けませんでした…。

書きたいという気持ちはあるのに、書くことが続けられないのです。


わたしは、はじめて「書く」ということにちゃんと向き合ったときに、書くことの難しさが、より身に沁みてわかるようになりました。

書きたい気持ちはあるけれど、「本当に書きたいことを書く」ためには時間もエネルギーもすごく必要だということ。

「思っていることを言葉にする」「感じたままに伝える」ということが、想像以上に難しい作業だったということ。

わたしの想いを、誰でも読めるところに表現するということが、すごく勇気がいる行為だったということに。


けれど「書くこと」がくれたギフトは想像以上のものだったのです。


最初に起きてきたのは、わたしの言葉が素敵だとコメントしてくれる人が何人もいたこと。

まだnoteではそんなに記事を書いていなかったのに、リアルな反応が得られることがたくさんあって、正直びっくりしました。

ちなみにnoteって、コメントをくれる人たちもすごく素敵な言葉を持っている気がします。

「言葉の宝箱のような、素敵な記事をありがとうございました!」
「とても心地よい丁寧な言葉たち、表現たちに惹き込まれました」
「素敵な記事だったのでフォローしようとしたら、すでに一度フォローしてました」
「すごく共感したnoteでした!表現してくださってありがとうございます」
「ブログを読ませていただき、本当に同じところを目指している方だなと思いとても感動しました。わたしもできることからやっていきます!」


それから、その反応はnoteの外にも広がっていきました。

デンマークにある「人生の学校」フォルケホイスコーレで出会った友人が、「あるブログを見て、わたしフォルケホイスコーレに行かなきゃ、絶対ここは行くべき場所だ!と思ったんだよね」と教えてくれた記事が、わたしのnoteだったこと(わたしはその学校に2年連続で行っていたので、まさかの1年後に現地で出逢えたのです)。

瀬戸内でイベントをやりたいと言ったら、「こういうカタチで応援したい」「僕も興味がある」「わたしもいつか同じことをやりたい」という人が出てきたこと。そして、それをこの秋に実際に実現できるまでになったこと。

東京のイベントに、このnoteだけでなく、過去のブログを読んでくれていた人が来てくれたこと(そのブログとnoteはつながっていないのに)。そして、わたしが当時、一番勇気を出して書いた記事が、一番好きだと言ってくれたこと。


最初は、名前を出さずに文章を書いていたのですが、そういう現実を目の当たりにして、少しずつ自分の名前で文章を書いていくことにしました。

自分として仕事を創っていくならば、自分という存在を表現していくことからはじめるべきだなって。

わたしという人間が何を経験してきたのか。
どんなことを考えていて、何をしたいと思っているのか。
どういう世界を創り出したいと思っているのか。
どういう人と出逢いたいと思っているのか。

そういうことをちゃんと表現していくことで、言葉が回り回って誰かに届いて、わたしの願っていることを勝手に叶えてくれることがある。

そのことをわたしはこのnoteで実感させられることになったのです。


そして、もう一つわかったこと。

会社員として生きていた自分は、わたしであることより、組織の一員であることが優先されているから「書けなかった」のかもしれないということ。

自分をそのまま表現することなんて、どっかのインフルエンサーだけがやることだってどこかで思っていました。


けれどわたし自身がnoteを書きはじめたことで、他の人のnoteも読むようになって、いい意味で”普通”の人たちが、しかもすごく楽しそうに、個性あふれる文章を書いているという事実を知ることになったのです。

そこには、それまでのわたしが知らなかった世界がありました。

こんなに面白い生き方をしている人がたくさんいたんだ…。
もしかしたら、書くことで「発見される」っていうことが起きるのかも?
ならば、自分を伝えていくことには、可能性しかないのでは??

会社員でいるうちに、いつの間にか無個性になっていた自分を見つめ直せたのはきっと「書くこと」をはじめたからだと思います。

そして、書くことを通してわたしは「わたしという存在」を確かめていて、これは一つのブランディングなのだと感じるようになりました。

今では、「書くこと」は自分という存在をもっと輝かせるための方法であり、ときには必要な出逢いさえ運んできてくれる「魔法」なのかもしれない、とさえ思っています。

自分の言葉で語れるようになると、相手に響く

ちなみにわたし自身は、書くことや話すことについて、どこかで時間をかけて習ったわけではありません。

けれど、商品企画やマーケティングという仕事をしている中で「メッセージを届ける」ということはいつも側にあって、そういう意味ではすごく言葉と向き合う時間は長かったように思います。

商品のわかりやすいメリットを並べることも大切だけれど、できれば創り手の想いとか、それをどう体験して欲しいのかということも伝えたい。

それらがこの世界に存在していることで、どんな喜びや希望が生まれるのか知ってほしいっていつも思っていました。


仕事での経験に加えて、わたしにとって「書くこと」の可能性を広げてくれたのは、教育メディアのライターをしていたときに受けたインタビュー講座でした。

「その人の直接の言葉でなかったとしても、あなたが聞き手としてその場で受けとったことは、文章に含めてもいいんだよ」

言葉の持ち主だけでなく、インタビュアーや編集さんがいることで、その人の素晴らしさが引き出されることがある。「書き手」が持っている言葉のチョイスとかセンスが、人にキラキラの魔法をかけることがある、と知った瞬間でした。


そんなふうに、むしろいつもどこかで書き続けてきたからこそ、書くことの意味とか楽しさというものを、体感しながら身につけてきたのかもしれません。


noteを書くようになってこの秋でちょうど2年。少しずつ「わたしの言葉って、意外と人に届いているかもしれない」って思いはじめました。

ちなちにわたしの場合は、「自分が体験したこと」を通して「自分が感じたことそのまま」を語るようになってから、人が反応してくれるようになったのです。


ちゃんと話そうとするほど、うまく喋ろうとすればするほど「自分の言葉じゃなくなっていっちゃう」ってこと、けっこうあるんじゃないでしょうか。

けれどどこかから借りてきた言葉って、なぜか相手に響かないんですよね。

いくらキレイな言葉を並べたとしても、ちゃんとその人の言葉になっていなければ、相手の心には届かないのです。


だからこそわたしたちは、拙くてもいいので、自分の言葉で語るべきなんだと思います。

うまく話せなくてもいい、キレイな文章でなくてもいいから、「自分の伝えたいことを届ける」ということを一番大切にすべきなのだと思います。

言葉って、ただ音の連なりではなくって、聞こえている言葉以外のもの、例えばその人らしさとか想いとかも絶対にのっていると思うのです。

だからこそ、音とか文字だけにとらわれず、「自分の想いとか伝えたいことをそのまま自分の言葉にして外に出す」ということが大切なのだと思います。


そして、自分のことを自分でちゃんと語れるようになると、現実がグッと動き出します。自分のやるべきことが見えてくるのに加えて、自分の言葉に反応してくれる人が出てくるんですよね。

いつの間にか、自分の知らないところで、言葉が架け橋になってくれるようになります。

まだ見ぬ誰かとご縁がつながって、一人では叶えられなかったことが実現したりします。

わたしが提供したいことを、受け取りたいと思っている人に出会えたりします。

わたしが過去に体験したことが、誰かのきっかけになったりします。

こうしてわたしは、「自分の言葉を持つって、想像以上に可能性を秘めているものだった…!」と、実体験を持って知ることになったのです。

これからの時代はきっと、自分の言葉が価値になる

たぶんこれからの時代は「自分の言葉を持っていること」がすごく価値を持っていくと思います。

なぜならChatGPTといった生成AIが、自分の代わりに言葉を生み出してくれるようになるからです。

たしかに、キーワードを投げれば文章をつくってくれて、資料までつくってくれてすごく便利ですよね。

必要に応じてそれらを活用するのはわたしも賛成なのですが、それに甘えて自分の言葉で書くことを辞めてしまうのはすごく怖いことだし、もったいないことだなとも思うのです。

想像力とか創造力、そして物事を具現化する力って、使わなければ退化していくからです。


2024年秋の現時点では、ChatGPTを使ってつくられた文章って、読むとけっこうすぐにわかります。

その人らしさがないというか、その文章を通して何を伝えたいのかが、よくわからないのです。読んでいても、心に響いてこないのです。

それを見たときに「あぁ、これはちょっとまずいかも」と思った一方で、「自分の言葉で語れる人の価値が上がるかも?」とも思いました。


自分の経験を、自分の言葉で語れるってすごいことです。

技術進歩によってバーチャルな経験は増えるかもしれないけれど、やっぱり身体を通して経験したことって、自分にとって唯一なものです。

それから、自分で感じたことに目を向けて、それを自分のそのままの言葉で語れるって、すごく価値になっていく気がします。

(GoogleもSEOの価値として、固有の体験や人生経験を重視しています。)


「いやいや、そんなの書こうと思えばいつでも書けるでしょ」と思う人もいるかもしれないけれど、少なくとも、わたしはそうではないと思います。

普段から運動をまったくしない人が、明日フルマラソンに出てくださいって言われても絶対無理なように、

自分の経験を俯瞰的に眺めること、
自分が書きたいことを言葉にすること、
そのままの気持ちを伝えること、
いかにそのときの感動を共有できるか考えること、
相手にどんなきっかけを手渡せるか想像すること、
そういうことって、すぐできることではないと思うのです。

自分を表現することって最初は誰もが難しいはずで、それでも表現することを続けているから、フィードバックがもらえて、言葉が磨かれていくのです。

少なくとも積み重ねた日々は裏切らないって思っています。


それから、エネルギーを込めて言葉を紡ぐから、誰かの心に響くし、必要な相手に届くのだと思います。

言葉って自分が思っている以上に可能性を持っていて、自分の願いを外に出すだけで、勝手に叶う方法を探してくれたりします。

わたしはそのことを、このnoteを通して知りました。


「書くことの魔法」は必ずある。

だからこそ、「自分の言葉を持つ」ということに意識的である人がもっと増えてほしいと思っているし、

自分の言葉を通して、自分という存在をより深く知って、必要な人と出逢って、自分の夢を叶えてほしいと思っています。


とは言え、わたしもまだまだ書きはじめたばかりなので、これから起きてくることが、まだまだ楽しみだったりします。

きっとnoteのなかには、「書くことの魔法」を実感している人たちがたくさんいると思うので、いつかそういう人たちのお話も聞けたらいいなと思っています。

今日もお読みいただき、ありがとうございました。


《わたしが旅を通して学んだいろんなことを伝えています》


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集