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冬空の下でタブッキの「レクイエム」/「イザベルに」を読む

インド夜想曲のあとは、レクイエムとイザベルに、を…

タブッキを愛する卍丸くんから勧められてインド夜想曲を読んだのが去年4月。

ちょっと時間がかかってしまったけど、お正月明けの連休を使ってどっぷりとタブッキの世界に浸りました。
すごくすごく好きな世界観。


【レクイエム】
7月最後の日曜日の灼熱の昼下がり、ひとりの男がリスボンの街を彷徨し、死んでしまった友人、恋人、そして若き日の父親と出会い、過ぎ去った日々にまいもどる…

寒波到来中の北海道の冬空の下でも、しっかりとリスボンの太陽熱を感じ、ゆらゆら揺らめく蜃気楼の向こう側がぼんやりと見えかかった…には違いありませんが、やはり真夏の日差しを浴びながら港の見えるカフェかどこかでゆっくりとページを捲りたい…とも思いました。

男は導かれるがままに、たった1日の間に実に23人もの「人々」に次々と出会うわけなのですが、慌ただしさの対極をゆっくりと彷徨い続ける彼の時間軸に身を置くと、まるでこちらの時計まで止まってしまったかのように感じます。
過去も現在も全ての時間が呑み込まれ、幻惑された気分とでも言いましょうか。

暑くて、眩しくて、静かで、優しい。

成り行きに抗わず、信念さえ持ち続けていれば、いつか会いたいあの人に再び出会えるような、そんな予感を運んでくれました。


【イザベルに ある曼荼羅】
レクイエムでの謎。
「この本で出あうことになるひとびと」の23人のリストには名前があるのに、一人だけ姿を表さなかった女性、イザベルとは何者なのか。そしてどこにいるのか。死んだのか、生きているのか。

本作ではそのイザベルという女性の消息をある男が尋ね歩きます。

今度はリスボンを出てマカオ、スイスの山奥にまで。

その男、タデウシュはどこの生まれか?という質問に「おおいぬ座」からだと答えるのですが、これ、すごく素敵じゃありませんか?

確かにタデウシュは所在不明の存在なき存在なのですが、ためらいもなく「おおいぬ座」から来たのだと言えること、その答えを聞いても「知らんな、そんな街、次から次へと新しい国が出てくるのは困ったもんだ」と受け入れている老人とのやり取りを読んだとき、存在の曖昧さなどというものは、私達の過ごしている一瞬一瞬の積み重ねには何ら影響しないものなのかもしれない、と私もいつか黄泉の国へと旅立った後には、大好きな冬の星座「オリオン座から来た」と言ってみたいものだと思いました。

さて、人は、死んでしまったらそこで生きている世界や人と分断されてしまうのでしょうか。

いいえ、と私は答えたい。

死んでしまった誰かのことを無意識下で意識すること、ありませんか?
それは頭の中に急に浮かび上がるとか思い出して感慨にふけるとかそういったことではなく、ふとした時に一緒にいて会話をしているような、なんとなく近くから見てくれているような感じ…。

タブッキのこの2作を読んだ今、そんなときにはきっとその「誰か」が会いに来てくれているのだと思いたくなりました。

「死とは曲がり道なのです、死ぬことはみえなくなるだけのことなのです。」(イザベルに より)と、そうタブッキが言っているように。

この本を読み終わったすぐ後に、汗ばむ青春の日々を瑞々しく彩り鮮やかな幾枚ものpicturesとして心のなかに残してくれた、懐かしい人から20年ぶりに連絡が入りました。

もちろんその人は死んでなんていない生身の人間なのですが、再び出会うとは思っていなかった人ともこうして曲がり道を経て、大きな曼荼羅の円のなかでバッタリと出会うことができるということに、成り行き任せの人生の面白さを感じた北国の冬に読むタブッキ読書週間となりました。

人生という曼荼羅は、万華鏡のように覗き込むたびに色や形を変えて私達の目に新たな姿を見せてくれるものなのかもしれません。
どの紋様も見られるのは一度きり、その儚さと美しさに探し求めたくなる秘密が眠っているような気がしてなりません。

来年は、7月の終わりの日曜日にリスボンの街を彷徨いながらページを捲りたい。

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