誰がため、何がために書くのが日記か
谷崎潤一郎「鍵」
読み始めてまもなく、冷えた指先で衿首を撫でられたようなざわめきが背筋に走った。
サイドテーブルに無造作に置かれた手帳に目を落とす。
そして、脇に置かれた数冊の本をそっと上に積み重ね、その存在感を消し去った。
昨年秋から、毎日この手帳に日記を書き続けている。
どんなにとりとめのないことでも、心の悲喜も、隠すことなく書いている、つもりだった。
「夫は勝手に盗み読むことはないだろう」という彼ら夫婦とは全く逆の信頼感によって、鍵もトリックもない居間の共用空間に置かれ続けている。
しかし、私は本当に「読まれないこと」を想定しているのだろうか。
「読まれるかもしれない」という思惑があるのではないのか。
現に、誰にも知られたくないことを書かないという選択肢がない私は、それらを第二外国語である韓国語を織り混ぜしたためているではないか。
自分自身に向けて書いているつもりでも、一方では第三者的な目線を意識し、あくまでも「日記」という体裁の中で書くか書かないかの駆け引きを絶えず繰り返しているのだ。
誰にも見られないはずの日記なんてものはないのかもしれない。
「鍵」で交互に綴られる夫婦の日記は、盗み読まれることを前提とした日記とも手紙ともつかない回りくどく曖昧な文面が夫が死亡するまで綿綿と続き、夫の死を境にしてその内容に変化が訪れるものの、夫の生死に関わらず郁子の言葉はある部分において一貫して真実味が無いように感じさせる。
表現ツールであるはずの日記のページとページの隙間に本心をひた隠しにし、夫を常に牽制しつつ巧みにコントロールする郁子の性への欲念、魔性性の強さには騙すも騙されるもない彼女の筋書きがくっきりと示されているかのようだ。
彼女は果たして夫を失ったこの先、一体誰に向けて日記を綴るつもりなのだろう。
恐らく彼女自身であるはずはなく、敏子や木村へとシフトしていくに違いない。
さて、私が「鍵」から感じた他人の日記を盗み読むという享楽を、夫はすでに味わっているのではないか、という気がしてならない。私はこの先何を書けばいいだろうかと、手帳の表紙を撫でながら考えあぐねている…
棟方志功の装画、カタカナで表現される夫の文体、そして67年前に書かれた当時の文学性を高める旧仮名遣いと旧漢字の趣が、ただ単に他人の日記を盗み読まされた、という悦楽を越え、作品としての完成度を最高潮にまで引き上げていたように思う。
ものすごい作品だ。
……しかしながら。
もし、私が酔って前後不覚に陥っている最中に煌煌と照らされた灯りのもと素っ裸であれやこれやのポージングをさせられその姿をカメラに収められたものが顔馴染みの人間に渡っていたと知ったとしたら…
ブチ切れ半殺し案件だろうと思う。
いや、そりゃそうでしょうよ。