大江健三郎「死者の奢り」から死と肉体の変化を考える
【読書記録】
文中に何度も出てくる「粘液・粘つく」という表現。
戦争からは遠く離れた世界の物語のようで、実はすぐ背後にまで迫り来るじりじりとした不気味さ。
人間が生きること、そして死ぬことの不条理さを突きつけられた読後には、何とも言えない気重さが残り、終始粘着質なものに纏わり付かれているような気分にさせられた。
「死者の奢り」を読んで、死んだ体が「物」になるときについて考えた。
私がこれまで見てきた死者の中に「物」は存在したのだろうか。
死んだばかりの肉体を、ベッドからストレッチャーへと移し替える。
硬直していない、だらりと力の抜けた私と同じ温かさを保った肉体からは、まだその人の気配を感じる。
その人間には、間違いなく生者の名残がある。
死んで数時間後の硬直した体に浴衣を着せる。
全身はすでにひんやりと冷たく、たるんだ皮下脂肪の柔らかさを除けば、木の幹や枝に服を着せているかのようだ。
ミシミシとした振動が私の手全体に伝わり、人から発せられているとは思えない軋む音に、思わず手首を掴む手を緩める。
私はこの硬い肉体からまだ、生者の気配を感じ取っているのだろう。
切断された、膝上15cmからつま先まである男性の脚を胸に抱える。
かつて軽快に地面を踏みしめ歩いていたはずのこの脚は、私の腕に信じられないほどずっしりとした重量を感じさせる。
冷たく、固く、重い、人間だったものの一部。
使い古された金属製機器の部品の如く、医療廃棄物場として無造作に置き去られたその脚からは、人の声は聞こえてこない。
そこに置かれたまま動くことはない。
あれは「物」だったのか。
生を失った人間は「物」になり得るのだろうか。
20代の頃、生者と死者の狭間の人間を看護することを好んだ。
看護師として、物言わぬ彼らが欲しているであろうことを半ば勝手に想像し、他の誰にも─その肉体の持ち主に出さえ─邪魔されず、私のペースを決して崩さずに動くことを好んだ。
いや、むしろ私は恐れていたのかもしれない。
その患者たちの家族、つまり「生者」と向き合うことを。
だから、物言わぬ彼らだけを看たかったのかもしれない。
救命救急やICUは、その生者と死者の狭間の人間とも、また、完全な生者であるその家族とも日々接しなければならなかった。
私の心は日々揺れていた。
作中の「僕」の言葉が、その頃の私の心のようだった。
そう。
生きている人間と話すのは困難で、徒労がつきまとうものだ。
私は、その徒労に耐えられなくなり、救急を去る決心をした。
そんな新人時代から十数年。
いつ頃からか、自分の中で変化が起こったのを自覚した。
人の体温を心と肌で感じ、生者に寄り添う喜びを知ったせいなのだろうか。
今は、むしろ「その徒労を味わいたい」という気持ちを感じながら、生者に接し暮らしている。