恋によって引き起こされた?!壬申の乱の原因について
前回の続きです!
1、壬申の乱の原因
3つ説があります。
~皇位継承問題~
これが一般的な論です。当時の皇位継承は母型の血を大事にしていました。その中で、大海人皇子は父親(舒明天皇)と母親(皇極天皇)が両方とも天皇であり、天皇になるには最高の血筋だったのです。一方、大友皇子の母親は女官だったといわれています。順当にいけば、天智天皇の弟である大海人皇子が次の天皇だったのですが、天智天皇は自分の息子である大友皇子を後継者として指名します。ここで命の危険を感じた大海人皇子は出家し、吉野に移住します。血統の強さからいけばみれば豪族たちが大海人皇子を支持する歴然であり、絶大な権力を誇っていた天智天皇の死に際してそういった思いが表面化し、壬申の乱に至ったとされます。
~天智天皇の革新的な政治~
白村江の戦いでの敗戦により、天智天皇は九州各地に城などの防衛設備の増築や近江大津宮への遷都により民衆や豪族たちの不満を生みました。これが近江朝廷への不満を増大させ、壬申の乱が勃発したとされます。
~額田王を巡る恋争い~
大海人皇子は若い時に額田王と結婚していたが、兄の天智天皇が額田王のことを気に入ってしまいました。大海人皇子は自らの立ち位置、兄の気性を考慮して、無念にも額田王を兄に譲り渡すことを決意します。このような恋の揉め事が壬申の乱に繋がったとされています。
2、大友皇子の敗因
上記にも書いた民衆や豪族たちの不満が多くなっていたことも十分ありますが、一番の要因は不破の関を先に大海人皇子にとられたことでしょう。東国とのつなぎ目であったこの関がとられたということは、東国の兵力も取られたことと一緒です。このことが大友皇子を軍事的にも劣勢に陥れ、敗戦へと追い込んだのです。
3、大友皇子生存説
信じ難いことに大友皇子生存説まであるのです!神奈川県の伊勢原市というところに石雲寺という場所があります。実は壬申の乱を生き延びて、この地で暮らしていたという言い伝えが残っています。いつか行ってみたいものです。このような言い伝えは日本各地に残っています。
4、入試に役立つかもしれない覚え方
①壬申の乱は字数が長いほうの皇子が勝った。
②壬申の乱の起きた672年の6と7は夏で海シーズン=大海人皇子を連想(一番重要な2は冬だけど)
③684年の八色の姓は、8×8は64って無理やり覚えました(笑)
④683年富本銭の鋳造:蜂さんが富むって覚えました。
こういった覚え方は頭の中のイメージが一番大切です!!
間違っていることがあったら本当に申し訳ありません。