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壬申の乱
壬申の乱について解説していきます!
1、登場人物
天智天皇、大海人皇子(天智天皇の弟)、大友皇子(天智天皇の息子)、大海人軍の武将の大分稚臣
2、背景
671年、天智天皇(旧名:中大兄皇子)が亡くなった。
天智天皇の弟の大海人皇子は、天智天皇に命を狙われてため出家して吉野(奈良県)にいた。
大海人皇子「兄上が亡くなられたかぁ。次の大王の座を取るために戦の準備をしなければ。」
大友皇子(天智天皇の息子)「叔父に大王の座は渡さぬ。」
~半年後(672年)~
大友皇子「兵は着実に集まっている。」
大海人皇子「戦いの準備は整った。」
3、戦いの経過
ついに大海人皇子は吉野で挙兵した。
まず、大海人皇子は現在の三重県に当たる積殖山口と鈴鹿関で高市皇子(タケチノオウジ)(大海人皇子の長男)と大津皇子(大海人皇子の三男)と合流した。
大海人皇子「よくぞ合流してくれた!我々はこれより不破の関(注)に向かう。この関を抑えて東国の兵力を抑えるぞ!」
注)不破の関:都と東国の豪族たちを結ぶ重要な関所。大海人皇子は実質的に東国を支配下に置いた。
不破の関を抑えた大海人皇子は東国の兵力を吸収し、約3万5000の兵力になっていた。
大海人皇子「兵を琵琶湖北岸、大津方面、三重経由の大和方面に分けて進軍させる。かかれー!」
大友皇子「ま、まずい。わが軍の足並みがそろわぬ。」
大和方面の大海人軍は苦戦しながらも箸墓の戦いで大友軍を撃破し優勢を保った。
~瀬田橋の戦い~
息長横河(オキナガノヨコカワ)、烏籠山(トコノヤマ)、安河で大友軍を破った大海人軍は瀬田橋(現在の滋賀県)で最後の決戦を挑んだ。
大友軍「敵が瀬田橋を渡っているときに橋を壊すぞ!」
大海人軍の武将の大分稚臣(オオキダノワカオミ)「一気に橋を渡るぞー!」
矢が降りそそぐ中、大分稚臣は決死の突撃を敢行した。
大友軍「橋を渡るのが早すぎる。だめだ、橋が壊せない!うわわわわわ」
大海人軍「いまだ押せーー!!!!」
この突撃により大友軍は総崩れとなった。
~大友皇子の最後~
大友皇子「山崎(現在の京都)まで逃げたがもはやこれまでか。無念じゃ。う⁉」
大友皇子は首を吊って自決した。これにより大海人皇子が勝利したのである。
4、結果
大海人皇子は飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位した。天武天皇は八色の姓など新しい制度の構築を行い、兄の天智天皇よりもさらに中央集権体制を強化していった。
次の記事では壬申の乱の原因について解説していきたいと思います!(あとちょっとした語呂合わせも)