短編小説)白の自画像
チューブの白い絵の具。私は白い絵の具みたいになりたい。
美術の時間、みんなは鏡とキャンバスを交互交互に見比べてはせっせと筆を動かしている。私の中学では1年生は自画像を描くのが恒例で、しんとした教室に時々カタカタと筆を泳がせる音がする。
濁った水がぼちゃぼちゃと浮かび、絵の具の匂いが立ち込めるのに、不思議とこの部屋は空気が澄んでいるみたいだ。それともただ北向きのひんやりした部屋なだけか。
美術の赤松先生は怒ると怖いから、みんな自画像になんて興味がなくてもおとなしくしてるんだ。先生のこと、みんなが裏では赤オニって呼んでいるらしいっていうことは私でも知ってる。それと、どうして向かい合って座っている美加ちゃんが私を慎重に無視してるかも分かってる。
私がいるとクラスの女の子たちのカラフルな会話に、筆で色を引いたように黒が滲んでいくの。うっすら笑うと気づく。やっちゃった、と思う。でもそのときにはもう遅くて、会話が濁った女の子たちの視線を感じる。絵の具で汚れた筆が透明な水をかき回すように。女の子達の目が、そうっと私の輪郭をなぞって、でもその視線はいつも私を見ていない。
もう一度白いチューブを手に取る。力任せに絞りだされたパレットの上の白を見つめる。
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しろ。
白い色って強烈に眩しいんだなと、思う。
ちょっとすぐには目を開けられないから、このまま眠ってしまおうかななんて思う。そのくらい冷静だった。ここは清潔そうだな、とも思った。今は何時なんだろう。都合のいい夢をみて、こんな白いところに来たのだろうか。
確かに白に憧れる。
あの子達のカラフルさを自分のものみたいにできる白に憧れる。あたかもそこが私の居場所ですよって、周りから色を奪って生きていきたい。いや、色をもらって生きていきたい。誰かから疎まれたり嫌われたりせずに、馴染んでいたい。そういう色になりたい。
恐る恐る目を開けてみる。やっぱり眩しい白。試しに一歩歩いてみた。でも全く進んだ気はしない。
白すぎる。
振り返ってみる。白い。
というか、地面が見えない。
白い床かと思ったけれど、底が見えない。
ずっと同じ白が続いている。
はっとして自分の手を見つめてみる。見つめているような気がしているところには、床みたいな白が見える。
透明になっちゃったのか、周りとおんなじ白なのか、手の感覚がある部分を必死で見つめてみるけど何の変化もない。時折、何かの気配がする。
学園祭の日みたいな熱気すら感じる。ここは教室みたいながやがやとしているところなんじゃないか。自分の足音すら聞こえない場所でそんなこと思うのはおかしいんだけど。ここよりはプールに沈んでるときのほうがよっぽどにぎやかだ。
なんなんだろう。私消えちゃったんだろうか。少しだけ怖くなる。この白が怖くなる。
走ろう。
思いっきり走ろう。
まず最初にそんなことを思った。
なんなのかわからない、どこまで続いているのかもわからない。だから走ってみようと思った。運動ができないと勘違いされているけど、私は短距離が結構速い。小学校4年生のときにはリレー選抜の補欠だった。きっと今の女子校では部活に入らずに体育もよく休んだりしているから、みんな私を病弱で運動音痴だと思ってる。
体育の授業に出なくなったのは、ペアにならないといけない準備体操をしなくても、みんな勝手に誤解して許してくれるって途中で知ったからだった。
白い中を走ったら、自分が光にでもなった気がした。
よけなくちゃいけないものは何もなかった。千切れそうな勢いで腕を振っても、腕は全然重くなったりしなかった。まっすぐどこまでも飛んでいるような気がした。
女の子の話は、一生懸命進もうとしても、いつの間にか誰かの足を踏んでしまっていたりする。色とりどりで華やかなのに、そこにはいくつもトラップがあって、道だって全然真っ直ぐじゃない。
だから私はそこを進むのがとても苦手。美加ちゃんはいつも、駆けるように進んでいく。韓国アイドルとか、Tik tokで話題の音楽とか、昨日Youtubeでみたすっぴん風メイクとか。そこを
走るためのアイテムを私は一つも持ってない。分かってないやつの薄ら笑いは、トラップのダメージを2倍にする効果があるみたい。
きっとそういうゲームなんだ。女の子の世界は、クリアするには沢山のカードやアイテムが必要で攻略が難しいんだ。それに比べたらここはなんて自由なんだろう。何の障害物もなければ、レベルアップする必要があるとも思えない。
誰も何も説明してくれない。ここにいるのが私であるのかももうわからない。
笑わないよね、と最初に言ったのが美加ちゃんだった。
「自分から笑わないよね、山下さん。」
疑わしそうに私を見ていた目は、可愛らしいまつげに縁取られていて、まだ状況の理解できない私は(羨ましい)と思っていた。
「何考えてるのかいっつもわかんないんだよね。楽しそうじゃないし。」
自分から笑わないどころじゃなかった。自分から怒ったり、悲しんだり、自分の意見を言ったり、自分から赤オニの愚痴だって言ったことがなかった。嫌いだからでも、楽しくないからでもなくって、ただ自分に自信がなかった。
私の仕事は、女の子たちがどうやって何に反応するのかにいち早く気づいて、おんなじ顔をしてみせることだった。その時もみんなに合わせて、ちょっと眉間にシワを寄せて、疑わしそうな顔をコピーした。
「不満…ならさ、一緒にいなくていいんだよ?山下さん、っていい子だしさ。」
みんながあだ名で呼び始める5月にも、私はまだちょこんとさん付けを残していた。6人いる輪の中で、いつも最後をついてまわる私。そんな私を、今日だけは美加ちゃんの言葉が捉えていた。
違った。こんな状況、一番避けるべき状況だった。一番早く気づいて溶け込んでいないといけなかった。
「不満なんかじゃないんだよ」
喉の奥に「ま」の音が引っかかったまま目を見開いて止まった私が、そのときに真似すべき顔はどこにもなかった。
その日から私はみんなの黒になった。怖かった。今までみたいに誰かを真似してみても、みんなの視線がすうっと冷える気がする。別に何かを言われるわけじゃないけれど、そこにいないみたいに透明で、心に積もる沈黙は影のように黒い。
白になりたい。戻りたい。周りの色をもらって、ゆっくり居場所をつくっていきたい。それで良かったのに。
大声を出してみたくなった。そろそろ音を聞かないと、もうすでに失いかけている「わたし」を私が忘れてしまうくらいなんにもなかった。
「 」
あーーーーっと叫んだはずのところに、何も感じなかった。
口の感覚と、辛うじて空気らしい感覚はあるのに、声は聞こえなかった。何も起きなかった。私がいても、何も起きない世界だった。白い発光は四方から絶えず続いていて、この空間には影すらなかった。
さっきから感じては消える熱気。他にも誰かがいるんだろうか。
振り返っても見回しても、「しろ」しかない。私しかいなくても、そうじゃなくても、そんなのもう関係ないって思った。だって私すらここにいるのかわからないから。
ただ均一でただ白いだけのこの眩しい場所を、魂みたいなものがさまよっちゃってるのかもしれない。これでもまだ私は死んだ覚えはないんだけど。
何も起こらなすぎて、自分がいる意味もわからなかった。これじゃあ、白くてもなんにも意味がない。
色を付けたい。自分の輪郭を確かめたい。自分の言葉で話したい。楽しさも苦しさもちゃんと感じられる自分を取り戻したい。自分の色を残したい。
もういっそ黒に戻りたい。
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「おお山下あ!やっと描く気になったか!提出まであと2回だから頑張れよ!」
赤オニの美術教師にしては無駄に大きな声が近づいてきた。驚いて反射で顔を上げると、目の前には真っ白なキャンバス。そこに書きかけの真っ黒な瞳。
私はこれまでの4時間分の授業で、毎回律儀に美術室に来ては永遠とキャンバスに白い絵の具だけを重ねていた。
自分の顔なんて見たくなかった。自分だけでは自分の感情さえわからない顔なんて、私だって嫌いだった。いつも自信のない自分に消えてほしいと願っていたのは私の方だ。
白になってしまいたかった。
赤オニの声に驚いていたのは、私だけじゃなかった。目の前の美加ちゃんは、わっと声まであげていた。
「ちょっとせんせーびっくりさせないでくださいっ!」
きっとふくれっ面をしているんだろう可愛らしい声が聞こえて、彼女をみると、彼女も私を見ていた。赤鬼は気にせずがははと笑う。はあとため息を付く生徒の空気に、私も思わず少しだけ笑って目を伏せる。
はっとして恐る恐る視線を上げると、美加ちゃんの口元が優しく緩んだのだけが、視界の端にほんのすこしだけ見えた。
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noteでは初めて小説を出してみます。#2022年のライトノベル短編 というタグを見つけて、ずっと3年前に書いたものを下書きにしていたのですが思い切って公開してみることにしました。
いつものエッセイとは違う雰囲気を楽しんでいただけたら嬉しいです。
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