書評:森銑三、柴田宵曲『書物』
愛書家の思いは時代を越えて共通である
『書物』とぶっきらぼうに題されたこの随想集は、近世の書物研究に打ち込んだ二人の碩学の手による共作である。前半を森が、後半を柴田が執筆している。
読書行為から出版市場に至るまで、「書物」から連想される主題を、紙幅の限り縦横無尽に説き明かしている。戦中の執筆だが、現代と相通ずる部分も多い。愛書家の本質は、いつまでも不易ということだろう。蔵書が家を圧迫し、本の貸し借りが盗みを生み出し、蒐書が家産を傾ける。そして愛書家の願いは、後述するように、良書を読みたいという点に帰着するだろう。
良書とは、誠実にして率直である
森はこの随想を「書物に興味を持って書物と共に暮らしている二人の男のたわごと(p.13)」と自ら評するが、これは面映ゆいがゆえの謙遜と言わなければならない。この本の別の箇所において「書物と共に暮らしている人間として、平素感じていることをただ率直に記して行って見たい(p.23)」とその意図を誠実に打ち明けている。こうした率直さや誠実さは重要だ。森にとって、書物が良書か否かは、まさに著者の感覚の誠実さに懸かっているからである。
読者もまた、その書物が誠実かどうか、つまり良書かどうか、虚心坦懐にして判断する敏感さを要求されている。そして同時に、森はみずからの誠実さを読者の前に披瀝することで、読者の実力をも試しているのだ。この誠実さや率直さに反応できるだけの鑑賞眼がなければ、良書は良書と気づかれない。それは卒啄同時に著者と読者の良心が感応し合うことである。わかる者だけがわかることだといってよい。しかし、それは神秘的でも抽象的でもない。実際に、著者と読者とが体験するものである。
玄人の技術を素人は超えうる
逆説的なことに、それは玄人の技術と素人の誠意ならば、素人の誠意を選ぶことに帰結する。著述家という専業者は、誠実さや率直さのためではなく、生活のために内実をともなわず書く場合があるからだ。
専門的な著述家も、商業主義的な出版社も、鑑賞眼をもたない読書家も、森にとってはつまらない。誠実さを欠く場合が多いからだ。ここから人格主義的な「文は人なり」というべき原則が導き出される。なにより率直で人として感じのよい文章が称賛されるのである。
書評は誠実さによって誠実さを評価する
書評は、著者と読者の互いの誠実さが呼応したとき、その結果として生み出されるものである。必ずしも良い書評ばかりではないかもしれない。しかし、称賛もあれば批判も存在することこそが、実際に、良書を良書たらしめる過程に対して具体的な表現を与えるものである。著作の良し悪しの判断は、書評を以て初めて、公共的に可視化されるのだ。それは書評という著述を読者が遂行することなしにはありえない。それが素人の仕事であってもだ。また良い書評は、それ自体、作品として読むことができる。森は言う。
著者の主題は明確である。誠実な著述、率直な読解、忌憚のない批評。これらが自由に交歓することで、良書は良書として裏書きされ共有される。陳腐な思想かもしれない。しかし思想としては陳腐だが、実践としては常に新鮮である。なるほど、現代では誰でも書くことができる。しかし、誠実で率直な書評はやはり常に新しい。
※
森の担当した、前半部分の、その入口のいくつかの章までを評して、かなり長くなってしまった。だが、素人らしい批評として言いたいことは言い切った。愛書家として、愛書家に対して、森が望んだことを、私も拙劣ながら果たせたなら幸いである。
目次
『書物』の話題の拡がりを感じてもらうために目次を抜萃する。なお、「ひとでないしの猫」さんのものを援用させていただいた。