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わたしたちはお疲れさまを言いすぎている

「お疲れさま」が溢れる日常

「お疲れさま」

わたしたちの日常に当たり前のように織り込まれているこの言葉。

仕事のメールは時間を問わず「お疲れさまです」から書き出されるし、電話を取れば開口一番「お疲れさまです」と挨拶をする。

退勤時には「お疲れさまでした〜」と頭を下げて、街で友達にばったり会えば「わー、お疲れ!」と声をかける。

飲みの席では「お疲れさまー!」の合図でグラスをぶつけ、別れの時は「じゃあね、お疲れ!」と手を振る。

「お疲れさま」って一体何なんでしょうか。

背景にあるのは心からの労いなのか、単なる呼応で習慣なのか。

今、少しだけ立ち止まって考えてみませんか?

どこでもフィットする魔法の言葉

この言葉、確かに便利なんです。

ミーティングの終了後、カフェでの別れ際、友人へのメッセージ。どんな場面にも自然と馴染むので、多用されるのも分かります。

その万能感に、わたしは違和感を訴えたいのです。

例えば、午前中に届く「お疲れさまです」のメッセージ。
始業直後にそう言われると、「もう疲れてる設定!?」と思わずツッコみたくなります。それが社会的な挨拶として受け入れられてることに滑稽さを感じるわたしは天邪鬼でしょうか。

一方で「お疲れさま」と言われた瞬間、「ああ、自分本当に頑張ってたんだな」と気が休まることもあります。この言葉には、人を優しく包み込む不思議な魔力があるようです。

「お疲れさま」に甘えたコミュニケーション

わたしたちは、挨拶としても労いとしても優秀な「お疲れさま」の使いやすさに甘えすぎているのかもしれません。

例えば、「今日どうだった?」や「元気してた?」と一人一人の状況に寄り添った言葉を探してもいいはずなのに、わたしたちは万能な「お疲れさま」に頼り、考えることを奪われています。

言葉は本来もっと豊かなもの。「お疲れさま」の言葉だけでコミュニケーションを終わらせてしまうのは、もったいない気がしませんか?

常識を問い直す旅の始まり

この記事は「お疲れさま」について掘り下げる全5部構成のエッセイシリーズの第1部です。

(マガジンにしました📖)

初回は「お疲れさま」がいかにわたしたちの日常に溢れているか、その現状を見つめ直すところから始めてみました。

わたしはこの言葉を否定したいわけではありません。

むしろ、その力や役割をもっと深く知りたいと思っています。どうしてここまでわたしたちの生活に浸透したのか。その背景には、どんな文化や感情が隠されているのか。

もちろん「お疲れさま」という言葉は多くの人に愛され、支持されています。反論や批判の声も想定していますが、わたしの心の叫びとして、今こそがこのテーマで発信するのに然るべきタイミングだと感じているので、お付き合いいただけると幸いです。

次回もお楽しみに。


ここまで読んでいただき、大変お疲れさまでございました😌🥲😵‍💫🤪

(いつもお世話になっております、初めましての方は初めまして、いかがお過ごしでしょうか、お時間をいただきありがとうございました、書面にて失礼いたしました、ご多幸をお祈りしております、今後ともどうぞご贔屓に、それではお暇いたします)

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