日本の学校教育の目標は「神になれ!」だった?!
教育基本法の前文には「人格の完成」が教育の目的として掲げられています。しかし、この目標設定には大きな問題があると私は考えています。人格とは、まるで果てしない空の彼方のように、永遠に到達できない概念です。それを「完成」させるという目標は、人間に「神になれ」と命じるようなものではないでしょうか。
この「人格の完成」という文言が採用された背景には、1947年当時の田中耕太郎文部大臣の強い意向がありました。当初の議論では「人間性の形成」という、より現実的な表現も候補として挙がっていました。田中大臣の考えの根底には、カント哲学の影響を受けた「人間は理性によって欲望や本能を完全にコントロールすべきだ」という信念があったとされています。つまり、教育の目標を「人間性の開発」にしてしまうと、欲望や本能が無制限に発散されて危険だという認識があったようです。
しかし、これは人間の本質を見誤った考え方ではないでしょうか。例えば、私たちが美味しい料理を見たときに湧き上がる食欲や、危険な場面で感じる恐怖心のように、人間の認識や判断には必ず感情や欲望が伴います。このことは、現代の現象学者たちも指摘している通りです。完全に中立的で無感情な判断ができるのは、もし存在するとすれば神のような存在だけでしょう。
この非現実的な理想は、現在の学習指導要領にも色濃く反映されています。例えば、学習指導要領では「主体的に学習に取り組む態度」や「自己の生き方を考え主体的に探求する」といった目標が掲げられています。これらは一見理想的に見えますが、その根底には「完成された強い個人」という非現実的な人間像が前提とされているのです。
さらに深刻な問題は、この目標が現代の教育現場に及ぼす影響です。例えば、クラスには学び方や物事の捉え方が様々な子どもたちがいます。ある子どもは集団での活動を得意とし、別の子どもは一人で黙々と取り組むことを好みます。最新の脳科学研究が示すように、これらの違いは個人の特性として尊重されるべきものです。しかし、学習指導要領に反映された「完成された人格」という画一的な理想は、こうした多様性を認めにくい構造を生み出しています。
学校現場では、学習指導要領に基づいて「自ら考え、自ら学ぶ」という理想的な学習者像が求められます。しかし、時には支援を必要とし、時には仲間と協力しながら学ぶことこそが、実は自然な学びの姿なのではないでしょうか。教師の適切な導きや友達との学び合いを必要とする子どもたちを、「自立性が足りない」と評価してしまう危険性もあります。
私たちが目指すべきは、日本国憲法が謳う平和で民主的な社会の実現です。そのためには、教育基本法や学習指導要領に見られる画一的な「人格の完成」という目標を見直し、一人ひとりが自分らしく自由に生きる力を育むと同時に、お互いの自由と個性を認め合える「自由の相互承認」の感度を養う教育が必要だと考えています。
これは単なる理想論ではありません。例えば、フィンランドやデンマークなどの北欧諸国では、個々の学習者の多様性を認めながら、互いに支え合う教育を実践しています。日本でも、教育の根本的な目標を見直し、より現実的で人間らしい理想を掲げる時期に来ているのではないでしょうか。
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