【哲学読書会レポ】苫野一徳•特別授業「ルソー『社会契約論』」
「社会契約論」の読書会は大変勉強になり、参加者の皆様に心から感謝申し上げます。今回の学習内容と、それを五七五調の言葉遊びでまとめたものをご紹介させていただきます。
⭐️
今回は通常の読書に加え、言語学で用いられるコンコーダンス(用語の使用頻度分析)という手法を使って、「社会契約論」における単語の使用傾向を調査しました。分析によると、最も頻出する単語は「人民」「国民」で約480回、次いで「国家」「政治体」が420回、「法律」が350回、「主権者」が280回、そして「意思」が260回でした。この頻度からも、ルソーがいかに人民や国民のための社会を真剣に構想していたか、また国の主権者である人民の一般意思を反映した法律に基づく国家運営の重要性を繰り返し強調していたことがわかります。
このことから見えてくるのは、市民はもはや国王や教会権力に従属する存在ではなく、自立した個人として対等な関係の中で国家や社会を作っていく「人民」として明確に位置づけられているということです。
形容詞の使用頻度を見ると、「良き」が48回で最多、次いで「正しい」が40回、「必要」が35回となっています。これを先ほどの名詞の頻度と併せて考えると、ルソーは「人民にとってどのような社会が良いのか」「その正しさの根拠は何か」「どのようなことが必要とされるのか」という点に重点を置いて考察を展開していたことが分かります。
しかし、こうした統計的な数値だけでは、「良い」という言葉の真意を理解することはできません。例えば、それが絶対的な善を指しているのか、それとも対話や合意形成のプロセスを通じて形作られる善を指しているのかは、数値からは読み取れないのです。このことからも、数値的なアプローチだけでなく、対話を通じた理解を深めることの重要性が浮かび上がってきます。
興味深いことに、コンコーダンス分析によって、本文中には「民主主義」や「人権」という言葉が登場していないことが分かりました。「民主政」という言葉は使われていますが、「民主主義」という表現は見られません。また、フランス人権宣言の思想的基盤となったはずの『社会契約論』に「人権」という言葉がないのは注目に値します。これは、「人権」という概念自体が『社会契約論』執筆当時にはまだ一般的ではなく、代わりに「自然権」という表現が使われていたことを示唆しています。
今回の対話会では、以下のような議論が交わされました。
まず、『社会契約論』における「人民は普段、国から安全や財産を保障されている代わりに、国を守るために自らの命を捧げなければならない」という記述について、私たちに何ができるのかという議論がありました。その中で、私たちの安全で平和な生活の基盤として、まず国家間の戦争を否定する理念が不可欠だという意見が出されました。
また、実際に戦争が始まりそうな状況では、「戦う」か「逃げる」かの決断を迫られる可能性があるという指摘もありました。しかし、これらは動物的な本能的反応であり、人間にしかできない第三の選択肢を考えることの重要性も議論されました。
『社会契約論』で繰り返し強調されているように、どのような国際関係であっても、主権者はあくまでも人民です。したがって、国を守ろうとする意思も人民の一般意思として表現されるべきであり、人民の総意に基づいて国の防衛方法を決定していくことが求められるという意見が出されました。
また、「国と契約を結ぶ」とはどういうことかという根本的な問いも提起されました。『社会契約論』の記述によれば、その国に住むこと自体が契約を結ぶことになると解釈できます。ただし、ルソーは重要な但し書きとして、その国に自由が保障されていなければならないと述べています。つまり、暴力的・差別的な政治が行われ、自由のない国では、たとえそこに住んでいたとしても、真の意味での社会契約は成立しないと考えるべきでしょう。
私たちの日常生活においても、常に対話による合意形成を目指す必要があることが確認されました。例えば、文化祭でクラスの出し物の場所を決める際にも、他のクラスとの対話や合意形成が必要であるという具体例が挙げられました。
議論は次第に「競争」というテーマに移っていきました。その背景には、社会主義的な国づくりと資本主義的な国づくりの違いについての認識がありました。資本主義社会では企業間の競争が社会形成に寄与する一方、社会主義では競争よりも協調を重視する傾向があるという対比です。現代の日本の学校教育においても、運動会などで競争的な種目が減少傾向にあります。また、共創には競争とは異なる楽しさ―みんなで何かを成し遂げる喜びや、共に発見する楽しさ―があることも指摘されました。
競争と勝ち負けの違いについても議論が行われました。勝ち負けを決めるには必ず何らかの形で相手のパフォーマンスを数値化し、比較する必要があります。一方、競争には互いの技を磨いたり人格を向上させたりするような、数値化できない側面もあり、勝ち負けを超えた価値があることが確認されました。
ルソーは『エミール』において、教育における競争に否定的な立場をとっています。その理由として、教育に競争が持ち込まれると、相手を征服することや征服されることが目的となってしまい、教育本来の目的である人間的で自然な成長が妨げられてしまうと考えていたようです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
#社会契約論
#古典読解
#テキスト分析
#人民主権
#平和論
#自由権
#人権思想
#競争論
#共創
#教育観
#合意形成
#ルソー
#データ分析
#民主主義
#対話力
#社会哲学