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小崎哲哉「現代アートとは何か」かるくまとめ

小崎哲哉「現代アートを殺さないために ソフトな恐怖政治と表現の自由」を読書会で取り上げるにあたって、前著である「現代アートとは何か」(どちらも河出書房新社)を読んでおこうと思った。

どちらもとても重めな本だが、読み始めるととても面白く、現代アートの知識や問題点について知れる刺激的な良書だった。一冊上梓するだけでも大仕事だろうに、二冊も書き上げるとは並みの情熱じゃない。感謝とともに、畏敬の念すら抱く。

読書会では「現代アートを殺さないために」のほうを取り上げるが、「現代アートとは何か」を読んでこその本書であると思ったため、読書会メンバーにかるくまとめたレジュメを送ることにした。

あくまでも「現代アートを殺さないために」のためのまとめなので、必要な部分だけ抜き出してまとめさせていただいた。作者を呼び捨てにしたり雑な部分もあるが、仲間内に回すものだったので大目に見ていただきたい。

以下その内容。引用文内の太字は私が行っており、本文中にはない。



〇現代アートの始まりは『小便器』

 
 現代アートの始まりは1917年にフランスのマルセル・デュシャンが発表した「泉(Fontaine)とされている。ニューヨークの公募展を主催する独立美術家協会の保守的な姿勢を批判するために、「リチャード・マット」という偽名であえて応募したというこの作品。無審査がウリのこの会で「どうみても、芸術作品ではありえない」として理事会に展示拒否される。「下ネタ」がタブー視されていた美術界では当然ともいえることだが、デュシャンとその協力者たち(すべて公募展の理事を務めていた)は真面目腐った理事会の態度を批判したかったと考えられている


その後、デュシャンらは自分たちの刊行する小冊子でこの一連のできごとを「リチャード・マット事件」として匿名で掲載。スキャンダルとなり、公募展での落選にもかかわらず、「泉」は広く知られることとなり、後世の芸術家たちに最も大きな影響を与える

芸術は、著者によればデュシャンの「泉」以前と「泉」以後に分れ、それぞれを「美術」と「アート」と呼び分けるべきとされる。

 

さらにデュシャンの「泉」は「レディメイド」(既製品を用いた創作)の概念をつくりだし、これは鑑賞者と作り手の立場の転換も生み出す。誰でも手に入るものを用いた芸術は、「作り手>鑑賞者」から「作り手=鑑賞者」へと芸術の価値を転換した

 

●「泉」以前の芸術――「美術」

 ・美的。
 ・対象をどう描くか、どうやって美しいものを生み出すか。
 ・デュシャン曰く「網膜的」で、作る側にコンセプトが欠けている。

          

●「泉」以後の芸術――「アート」もしくは「知術」

 ・概念的。(美醜はもはや価値とは関係がない)
 ・「つくる」ものではなく「選び、名付けて、新しい見方を示す」もの。

→「泉」以後、芸術とは「美の追求」ではなく、「知的で真摯な活動」となる。デュシャンは芸術を「美」の枠から、哲学などと同様にひとつの概念を追い求める「知」の領域へと解放した。

 

〇現代アートを鑑賞するために「アート史は知らなくてもいい」

  



デュシャンの1917年の発表ののち、「泉」が現代アートの先駆けとして理解されるのは40年ほど経った1950年頃からだったとされる。アンディ・ウォーホルは既製品かつ大量生産品であるトマトスープの缶を描き、ロイ・リキテンスタインは雑誌や広告、コミックの一部を拡大してキャンヴァスに描く。

ここにオリジナリティーや美的感覚は存在せず、あるとすれば「何を現代の生活から選択したか(選び)」「それらにはどのような意味があったか、どのように再解釈したか(名付け)」「どのように表現したか(新たな見方を見出す)」というデュシャンの述べた「知的」な活動だ。

描かれたものが「美しいかそうでないか」は、現代アートにはもう通用しない、ということらしい。だから「あいちトリエンナーレ」のような見る人にとっては不快な作品も存在するし、そこに「美醜」「好悪」「善悪」の問題を持ち出しても、一面的な理解にしかならないのだろう。

もはや芸術は「美的」で「網膜的」な領域からは解放されている。芸術家たちは哲学、政治、社会問題、自然科学、宗教など大きな問題と向き合って創作を行っている。

小崎は「現代アートとは何か」のなかで、アーティストたちの創作動機を7つに大きく分類し、これらの混在によってアートは成り立っているとする。

 

1.新しい視覚・感覚の追求
2.メディウム(絵画、彫刻、映画、舞踊など表現の方法)と知覚の探究
3.制度への言及と異議
4.アクチュアリティと政治
5.思想・哲学・科学・世界認識
6.私と世界、記憶、歴史、共同体
7.エロス・タナトス・聖性

現代アートに触れるとき、これらの動機がそれぞれどれくらいあるのか(場合によっては点数までつけて)考えてみると、現代アート作品の読解――作品が持つレイヤーの鑑賞が深まると小崎は述べる。

ただし、そうはいっても取り付く島もない、どこから理解をはじめればいいのかわからない作品もある。

その極まった例の多くは、作品の外に流れる「文脈」に寄る。

たとえばリクリット・ティラバニという作者の「Untitled(free)」は1990年にニューヨークのギャラリーで行われた展示だが、芸術品らしきものはなにもなく、代わりにキッチンとテーブルが置かれたという。鑑賞者はそこで作者自身の作った手料理を振る舞われ、おいしく食べて帰っていく。

これは美術館、ひいては芸術が心の交流の場ではなく、コレクターや資産家による投資の見本市となっている現状への抗議とみなされている。

その後、この作者は「何も展示しない」、「過去の展示を想像してください」とアナウンスするだけの展示を行って見せる。これらも美術館を芸術品の墓所のような場にしてしまっている(アートの)体制への批判があるとされる。

 

小崎は「現代アートを理解するために、アート史を知る必要はあるか?」という問いに、こう答えている。

 

通例、アートの鑑賞には、特にアート理論やアート史の知識が必須とされる。「芸術理論の状況や、アート史の知識」こそがアートワールドの正体であり、その知識を身に付けなければ価値判断はできない。
(中略)
(キュレーターや専門家やコレクターたち)「一群の人々」は、この知識を、少なくとも「ある程度理解する準備のある」人々である。「準備」のない人々は、その時点で資格なしと見なされる。「現代アートは敷居が高い」とされる所以である。
 (中略)
作家をはじめとする現代アートのプライマリープレイヤーがアート史を学び、必要な知識を身に付けるのは当然であり、義務であると思う。けれども、鑑賞者にその義務を課す必要はない。作品に「制度への言及と異議」という創作動機が含まれている可能性はあるし、鑑賞者がそのことをわきまえておくことは必要ではないとしても有用だが、鑑賞者が作者ほどに「制度」について知る必要はないということだ。
 (中略)
世界のディストピアかが進む今日、アート作品を鑑賞するには、むしろ同時代の世界情勢や、それをもたらした歴史(アート史ではなく世界史)の知識のほうがはるかに重要である。アーティストは「炭鉱のカナリア」として、ディストピア化が進む時代に敏感に反応し、自身の問題意識を作品に込めている。だから、アクチュアリティや歴史、アート以外の文化芸術、科学や哲学などに関して作家に近い知識を備えておくと、作品の解読は格段に面白くなる。「制度への言及と異議」という動機は7つのうちのひとつに過ぎない。
 (中略)
とは言うものの、アート史の知識があると実はとても楽しい。シネフィルが映画を観て、「この作品は〇〇監督へのオマージュだ」とか、「あのシーンは『××』の引用だ」とか言うのと同じである。必ずしも必要ではないけれど、学べば楽しみが増すことは間違いない。鑑賞体験を増やすとともに、批評やアート史に関する言説を読んで、アートをいっそう楽しんでいただきたい。


〇現代アートの問題点

 

さらにその一方で、日本のアートシーンの現状にも批判的な意見を小崎は述べている。

・ジャーナリズムが海外アートシーンについて無知であり、国内の問題についてもその後の報道をしない。

・芸術大学でのアートの教壇に立つアーティストが1980~90年代に「絵画の復権」に影響された人ばかりで、「インスタレーション」が主流になりつつある昨今に置いて時代遅れになっている。

・美術館の大衆化(ポピュリズム)が進み、サブカルチャー的な展示や大衆文化の展覧会(ジブリ、きかんしゃトーマス、ムーミン、手塚治虫、ファッション、最近の漫画など)が増えている。

・エリート主義的な「素人お断り」な芸術祭(広報も説明も異様に少ない)が開かれ、業界エリートの自己満足に終始し、現代アートの裾野を広げることに貢献していない。

・自治体の謎の「アートフェスティバル」推し

・女性や若年層の作家の搾取

・業界全体の男尊女卑

 

美術館の大衆化は、「コレクターたちによるアートの専有化」とも合わせると、より大きな問題となると小崎は述べる。アートは資産となり得る。資産家たちはそれらのアートを「資産家の社交場」として作った自前の美術館に閉じ込め、大衆の目には触れられないようにする。一方で、美術館はポピュラーでわかりやすい作品の展示を行っていく。

小崎はこれを「フランス革命前に逆戻りするのだろうか」と案じ、「芸術作品は人類の共同財産」というモットーが建前のきれいごとと化し、作品の特権的な私有化や囲い込みが進んでいると嘆く。芸術は高級・高尚なハイカルチャーであり、一般の人々には理解できない以前に鑑賞もできない、そんな存在になってしまう。「アート―シーンは緩慢な死に向かっていくのかもしれない」と小崎は言う。

 

現代アートは「本物のアート」の世界と、99%とは言わないが数十%の大衆が名作を口実に「他者と過ごす」世界とに二分されることになる。そのとき、後者はもはやアート的な世界とは呼べず、何か違うものと考えざるをえない。
 
これまでに述べてきた検閲、自己規制、新興私立美術館はいずれも大敵だが、(ポピュリズムが)最も難敵であると思う。ポピュリズムという甘美な誘惑に抗することは、自らのアイデンティティを問い直すことでもある。美術館は自分自身との戦いに勝てるだろうか。
 


最後に、現代アートを読解する際に「アート史」の知識とおなじくらい必要となる「アクチュアリティと政治」の動機について、小崎はひとつの危機感を語る。

 
(広島市現代美術館の話のあとで)今日では少なからぬ数のアーティストがこうした状況に敏感に反応している。その気概を頼もしく感じる一方で、違和感も禁じ得ない。芸術作品に政治的な主題が目立つ時代は歪(いびつ)だ。アートはもっともっと自由にして融通無碍なものであるはずだった。7つの動機のうちひとつだけが突出するのは異常である。ひとことで言えば、この時代は狂気の時代だと思う。
 



 

以上

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