【バンクーバー】転職考えてるってよ
辞め辛ぇぇぇえ(やほい)
けれども、辞めたいぃぃいいい!
なぜ辞めたいのか
せっかくワーホリで来たのに週5日、朝から晩まで働いてていいんだっけ?
週5日
朝から晩まで働いている。
もちろん収入は大切で、あればある分だけ心強いに越したことはない。
けれども
ふと考えてしまった。
混雑した店内、僕は調理場にいる。
今までそれが原因で何人も辞めたと自慢気に話す懲りないスタッフを横目に詰め込み教育に辟易としていた。
何かを言われても
「はい」とか「……はい」とか「は……い」とか気のない返事をしながら
荒れた店内から外を見た。
そこは、『バンクーバー』ではないか。
8月中旬の柔らかな日差しが作る街路所の木漏れ日の列や、生まれた子供の頬を愛しそうに撫でる母の手のような慈愛に満ちた風、この瞬間のすべてを祝福しながら生きているように見える人々。
『バンクーバーに来てまで日本と同じような働き方をして、なにやってるんだろう』
こういった『そもそも』的な本質を探るような問いが生まれてきたら人は哲学になる。
それでもっていつもよりも人生を隣に感じる。
もしかしたらたまには親しそうに手もつないでくれるかもしれない。
仕事を終え帰宅すると婚約者が
「せっかく8月なのに、バンクーバーで8月を過ごすことなんてもうないかもしれないのに、全然休み被らないね」と言う。
バンクーバーである程度過ごしたら、次はオーストラリアに行く予定だったから、その出費に備え僕は週5日働くことに決めていた。
けれども、けれども
我々はワーキングでもあり『ホリデー』ではないか。
このまま働き詰めでバンクーバーでの1年を過ごしたら、
僕らが264歳くらいになって過去を振り返るとき、その時には結婚100年目をとうに超えた現在の婚約者に
『人生で1年だけ過ごしたバンクーバーは楽しかったけれど、働いてばかりだったね、もっと二人の時間がほしかったね、色んな所に行ってみたかったね』
と言われるだろう。
僕はそのショックで、ダイヤモンドで作り上げた入歯を噴き出して失くしてしまうだろうし、こう思うだろう。
『もう、2度と君に20代のあの時を返しては上げられないのに、なんでもう少し君との時間を深く考えなかったのか』
なぜ、青春を人生最後の瞬間に与えてはくれないのか、みたいなことを言っていたフランス人作家もいたな。
僕は一体全体どうすればよいのか。
僕自身のことが少しわかったよ
僕は基本的に仕事が嫌いでいつもグチグチと愚痴を愚痴っては愚痴る。
人間関係の構築も器用ではない。
溶け込むことはできるけれど、結局の所それは擬態であって、彼らからすれば僕は別の生命体なのだ。
僕は職場によって人間関係の構築方法を使い分ける。
あとから疲れるような己の限界を超えた人間関係の領域展開 靴下
最初から奇人扱いされる人間関係の卍解 江戸幕府
『1』に関しては、周囲に対して過剰な同調を演じ「こんなキャラなら普通寄りでしょ」といった今まで収集してきた普通っぽい人間の特徴で作った張りぼてで一人芝居。
上手くは行くが、無理をした心が徐々に蝕まれていく。
退職する際には漏れなく「人間関係リセットスイッチのあ」を押してしまう。
人間関係リセットスイッチ、あ
あっという間にLINEから学生時代の友人、職場関係の人々、ついでに家族もリセット
『2』に関しては、少しだけ「素」寄りの自分で行こうとするから、みんなが戸惑う。
雑談には混じらないし(気がどうかしてるのではないかというくらい雑談ができない)
話題が僕の関心のある物事に移れば、沈黙が嘘のように溶けてスポットライトが当たったように永延に僕のターン。
人から見れば表情もなく、退屈そうに生きていると思われているだろう。
僕は個人で楽しい。
ほとんどと言ってもいいぐらい個人でしか楽しめない。(僕が気を許しているのは世界に婚約者1人だけだと自信を持って言える。)
個人の楽しさを共有したら、そこには個人の抱える個人での楽しさと言うものが消失してしまう。
だから共感も求めない。
というわけで、1,2のどちらに転んでも
自分の首を絞める生き方しかできない。
婚約者にはずっと
「貴方には絶対に何かしらの発達障害がある」
と年単位で言われてきた。
最初鼻で笑って、
「僕はかなりまともなほうで、普通の人間だ」と
言っていた。
けれども年を重ねてあらゆるエピソードや特徴が発達障害のそれと符合した。
日本に帰ったら、さっそく調べてみよう!
怖いのはさ、これだけ生きにくい原因が
ただの『無能』であった時だよね。
それって、もっと社会に居場所がないように感じる。(ふざけんな社会)
婚約者には
「安心していいよ、貴方には絶対に何かあるから」
と慰めとも言えないようなことを言われた。
それなら自分の特性(仮説の域を出ない)に沿った仕事や生き方を模索してみるのもありかなと感じた。
というか、それをしないと僕はあと20年も生きてはいられないと思う。
自分で自分を終わらせることになるかもしれない危機感を感じる程
生きにくい。
今のバンクーバーは本当に仕事がないらしい。
そして僕は全く英語が話せない、よってまだ掲載頻度の高いキャッシャーにも応募できない。
さて、起業するか……
まずはストレスなく起業のアイディアを出すために50年は生活に困らない生活費を援助してもらって……
50年経っても起業の催促は絶対にしないという同意書も用意しないと……
転職よりも前にすることが沢山だ、やれやれ
詰め込み教育だけは勘弁です、ひぃ
体調不良ぎりぎりの満腹に近い状態でご飯を食べろと言われても無理、その店から走って逃げるね。
詰め込みもいい所。そんで今まで詰め込みすぎてアルバイトに逃げられているのにも関わらず工夫しない。
いくらワーホリ勢が掃いて捨てるほど溢流しているからって、
そもそも数か月だろうと人が定着してなければ、延々と人件費の無駄ではないかねワトソン君。
新人と教育する側の人件費を空費しているのに、なぜ原因を考えないのか不思議で仕方がない。
最近まで職場で、ミスをいじられ続け、
「自分はなんて無能なんだ」と割と危ういところまで自己否定が進み、間もなく『学習性無力感』になりそうなところで、待てよとなった。
待てよ、今まで何人の人がどういう理由で辞めているのか聞いてみようと。
その答えに安心した。
「ほとんど、キャパオーバーって言ってやめていく」
答えを聞いても
「僕が無能なのはかわらない」という気持ちは晴れなかったが、
キャパオーバーを理由に辞めてもいいのだ、と思ったことで少し気持ちが楽にあった。
たかだかワーホリに何年も働いている社員と同じことを求めて、情報を整理する間もなく、その人がどういうタイプの教育に適しているかも分析せず、ただ、詰め込んでいるだけなら人に教える資格はないと感じた。
これは自分が上司だった時に気を付けていたことだから特に気になった。
詰め込まれては反復する間もなく、次に詰め込まれて
ミスをしようものなら皆の前で晒上げ。
せめて
人の上に立ったり、教えたりするなら
難しい心理学の本とか脳科学とかは一旦置いておいて、
「デール・カーネギーの人を動かす」は読んでほしい。
如何せん科学的なエビデンスもないし、自己啓発染みたご都合主義な部分も否めないが、実践してみるとかなり効果がある。
著者自身の深い洞察力に裏打ちされた内容であり、文字と言う教鞭をとって、ある種の人間とは?といった根源的な問いに優しく講義してくださる。なんちってカッコつけてみたりして。
全体的にただの愚痴ですわ。
ずっと働いていればそれこそ出来るようにもなるだろう。
詰め込みの効果というよりも、本人の忍耐と労力によって昇華するに過ぎないだろうが。
僕には無理かもしれない。
就労ビザのためとか、詰め込み教育の方が覚えやすいという人は合っているのだろう。
ただ、僕には合わないなと感じただけなのに、最もっぽいことを盾に自分の正当性を主張してしまった。
ここに
素直に謝罪します、
すいません、僕が無能でした。
辞めさせてください。
まとめ
いまのところの僕は、折角来たのだから婚約者ともっとバンクーバーらしいことをして楽しみたいという気持ちになっている。
胸いっぱいにバンクーバーを吸い込んで生きていた日のことを忘れないために。
また考えが変わる可能性も否めない。
こんな僅かなお金じゃ遊びたいのに遊べない、
そうだ、まずは就労ビザをもらってお金を貯めて来年遊べばいいよ!
という具合にならないでもない。(無能に配れる程安いビザではない)
今の仕事場は毎日忙しいし、今後の戦力としても割と期待されているから、とても辞めるなんて言い辛い。
けれども負けるな、mouri
相手の忙しさや、気まずさなんて言っていたら一生他人のために財布を開き続けるぞ。
誰の一度きりの人生なんだ。手垢がついて一度きりの意味が随分とぼやけたものだ。
古代ギリシャの哲学者風に言ってしまえばこの僕に伝わるだろうか
「二度と同じ川には入れない」
ではなく、
「一度も同じ川には入れない」
のだ。
つまり、厳密に言ってしまえば
僕らには一度もないのだ。(何言ってんだ曲解と詭弁だろう)
つまり、要するに、これだけ頭に入れておけばよいよ、僕
『世界にはお前と婚約者の二人しかいない』
とりあえず今、転職中だってよ