mou_ciel
書き残したいことを書き残したいように、雑記的な。
最近の僕はだいぶ素直になれた気がします。素直になると今まで見えていた世界とは少し違う世界が見えてきて、僕にとってはとても生きやすい世界になった気がします。総じて僕はとても幸せです。しかし幸せですと宣言しなければならない状態が幸せであるかは少し疑問が残ります。自分で文章を書きはじめたからにはこの問題を解決したいと望みます。しかし僕は気まぐれな人間なのでこの問題を解決することは難しいかもしれません。なぜなら僕のこの感情がこの文章を書いている間に変わらないとは限らないからです。そう
「わかるだろう?」 という圧力について考えるとき、様々なことを思う。 多様であろうとするとき、分類という病理に囚われる可能性を常にはらんでいる。 分類は恐ろしい。理解を強要する。 わからないということは知識が不足しているのだと糾弾される。 他者に対する無理解を嘆かれる。こんな恐ろしいことがあるだろうか。 僕は、もうつらくなった。行為によって理解し、行為によって行動しよう。
人に敬意を払う 口にするほど簡単じゃないと思う。 僕は人よりも人に敬意を払っている方である気がしていたし、今もちょっと思ってるな。 でもなんとなく、これは敬意を払っていないんじゃないだろうか。 なんかね。上から目線だよね。って言われちゃって。 上とか下とかどうでも良いのに、僕は僕の立場から喋るのだから、それはあなたの感じ方じゃない。って思ったけれど、なんとなくまた飲み込んだ。 けど嫌な気持ちは残るから、またサヨナラをするのかもしれない。 こういうところをきっと、上
過去の人がどのように生きれば、わたしはこのような世に生まれなければならなかったのか。 今の時代にあって、わたしがこのように自我を保っていられるのは、間違いなくこの環境のおかげである。 他の人たちは毒されてしまった。この異常さに慣らされてしまった。いつ壊れるかもわからない恐怖が絶対に壊れないと信じながら、壊れないものを作ることに躍起になる人たち。 私たちは脆い、壊れやすいのに、そのことに対しての赦しはない。 完璧を求め、完璧に生き、そして完璧を信ずる人たち。 わたしは
目を閉じた先が世界じゃないと だれが決めたんだろう 目の前に広がるものが世界だと だれが決めたんだろう そんなものだけが世界なら 私は世界が大嫌いだ。
眠ればまた起きられると誰が決めたんだろう 全く同じではない僕の同じ人生がまた今日も始まった それは残酷で無慈悲で今にも壊れそうなのに壊れない いっそ壊れてしまえばいい 壊れたら僕は悲しみの中に溺れてしまうだろうか
他者からの評価も大切だけど、自分はあまり気にしない。(ようにしているといった方が正しいかもしれない) 他者評価を気にしたところで、自分にとっての還元があまりない。全然興味ないけれど、2chをスクロールしてしまうのに似ている。 自分の評価は自分で決めるものだ。自分と一番長く付き合っていくのは、他の誰でもなく、自分なのだから。
普通であれば、僕は保障される。 普通さえなくなれば、私はもっと自由になれる。 普通が僕を癒してきた。だから僕は普通に安堵する。 普通が私を苦しめてきた。だから私は普通に挑戦する。 普通への挑戦者があわられた。彼女は普通に苦しめられたと嘆いた。 普通であることで幸福な人と出会った。彼は普通に救われてきたと告白した。 僕は普通を更新したくなかった。僕を癒してくれた普通を手放したくなかった。 それでも私は普通に挑戦する。私を苦しめた普通を私は絶対に許さない。 彼女は
すごく個人的な話なのだけど、僕には「〜〜ってなんだろうねぇ」という口癖がある。 あんまりtweetすることはないけれど、例えばこんな感じである。 なんだろうねぇという口癖は、孤独な時にとても役に立つ。勝手に話し相手が生まれてくれるから。以下に例を。 (浴衣で歩くカップルを眺めながら) 僕「青春だねぇ…」 なんだろうねぇbot「青春ってなんだろうねぇ」 僕「若い者の特権だろうねぇ…」 なんだろうねぇbot「青春ってなんだろうねぇ」 僕「青い春だねぇ」 なんだろうねぇbot
「しんどい」 と私がそう彼に告げた時、 「別に誰に何と言われたって生きているってのはそれだけで尊いことだよ」 と言ってくれた。 先輩に愚痴を言われて苦しくなった。言われたことができない自分を、私自身がで追い詰めていくことに、少し嫌気がさしていたのもあるかもしれない。 「生きていることが尊い」というのは彼の決まり文句だった。 生まれてから、あまり人から認めてこられなかった私は、その言葉が私に向けられているという事実が何よりも嬉しかった。いつも「ありがとう」と言うと彼が笑っ
生きている限り、出会いと別れは常に伴ってくる問題である。 かの偉人達の誰かもこんなこと思っていたらいいな(願望) 今僕はまさに、別れという問題に直面している。季節の変わり目にあって、お世話になってきた方々の旅路をお見送りすることは、僕にとってはよくあることだ。 幼稚園の頃から、仲の良い方々とは、別れてきたという印象がある。別れがたいと思えばこそ、別れが僕の前に立ちはだかるのだ。 少し考えればわかることだが、これは別に僕だけに訪れている問題ではないのだろう。僕には少しだ
今日何気なくtwitterを見ていたら、このツイートが流れてきた。 「ああ、わかるなぁ」と思った。清少納言の祈りと僕が言葉に願いを乗せて書いていることに関連はないであろうが、僕は確かに願いながら書いてるなぁと妙に納得した。 そもそも願いと祈りではその性質が少し違うだろう。 願いは私に働きかけ、祈りは大いなるものに捧げるものでしょう。 そういった意味で僕は、常に願っているなぁと。 最後に僕が今日投稿した写真を添付してこの文章を締めたいと思います。 If we can
F「夏だね〜」 M「夏だね〜」 F「夏といえばさ、肝試しとかの時期だよね」 M「肝試しね、あったねそんなの。僕は小学校の修学旅行でやったきりやってないけどね」 F「そうなんだ。私はね、結構好きなんだよね、肝試し。毎年心霊スポットを検索しては、そこに訪れて、これがあの…って思いながら怖がる人たちの顔を思いを馳せて感慨にふけるのが好きなの」 M「僕は、君のその発言がとてもホラーだと思ったよ、今年は是非自分の頭の中を探検してみるといい」 F「そんなのつまらないじゃない〜!私のことは
今更愛してるって言われても 僕にはもうどうすることもできないんだ。 君を想っていた気持ちも 君を想っていた時間も とうに過ぎ去ってしまったのだから。 愛ってのは一方的で 愛ってのは刹那的で だから愛し合うってとても奇跡的なんだ 僕が君に寄せてた想いも 君が僕に寄せてる想いも それはもう一方的で、 どうしたって叶わない 僕がどれだけ想っても届かなかった 君がどれだけ想っても届かないだろう 僕たちの関係は昼と夜みたいだ、 繋がってるようで繋がっていない 相手が想う時に
人は忘れる生き物だ。 あったことをなかったことにして、なかったことをあったことにして。素敵に飾る生き物である。 あれは素敵な恋だったのか。そもそも恋だったのか。知り合っていたのかいないのか。 夢か現かわからぬままに今日も歩いているのだろう。
「嫌いだから見返してやる」 と友達が言った時、僕の中でなんとなくモヤモヤした。 別にその人が何で力を出そうが、興味はないけれど、その時確実に僕の中でモヤモヤした。 僕が物事に取り組むあり方とあまりに違うと感じたからだと思うけれど。 僕は好きから始めて行動しているんだなぁとその時に気がついた。 僕は、言葉が好きだ。だから文章を書く。だから言葉を見つめ直したい。 そうやって僕は言葉を積み重ねている。好きじゃなかったら多分ここまで続くことはないだろう。 そうやって何回も恋に