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河合隼雄『で』語るなんて出来ないが、読書は惑うことを肯定してくれた。

人生は処女峰に登るようなものだから、道に迷って、尾根から少し足を踏みはずしたりもするだろう。右に入りこんだり、左に落ちこんだり、右を見たり左を見たりして歩き続けるのが中年であるといえるし、惑うことにも深い意味があると思われるのである。

河合隼雄「中年クライシス」より

読んだことがなかった河合隼雄の著書を読みたくなったのは、薦めてもらったからだ。本を読むのに薦めてもらうきっかけほどありがたいと思うことはない。

私はずっと一人で読書してきたからだ。周りに誰も本の話をする人も現れず、本が好きだとも言えずに過ごしてきた。いったい誰が、どこで本が好きで読んでいるのかが分からないくらい不思議でしょうがなかった。

SNSのおかげで本当に本が好きな人がいることを知ることが出来た。今は聞いたらすぐに教えてくれる人達がいる。

教えてくれる人達がいるのなら、すぐに読みたくなる。それは私の中ではすごく自然な感情になっている。なぜならば私が読書出来る残された時間も、読める本の数も確実に減ってきてしまっているからだ。

あと、どれくらい読めるだろうかとワクワクしていた希望は、あと、どれくらい読めるだろうかと不安が先に来るようになった。

中年と括られる年齢になった。誰と比べて真ん中なのかも分からない。平均寿命なのだろうか。そうすると自分に本当にあと半分も人生があるのだろうかと考えてしまう。そういうことすら、自然に考えるような人間になってきてしまっている。

不惑。この言葉を昔から知っていた。惑わずだ。だが、意味を考えずに言葉そのものとして捉えて考えていて、しばらく過ごしていた。いつからか言葉の意味を考える時間が増えた。

三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。

この言葉の持つ意味を私と同じように解釈してきちんと論理立てて説明してくれている人に出会えて嬉しかった。それが河合隼雄だった。

四十にして惑わずとは、五十にして天命を知るまでの十年間を生きて「惑わず」になるのではないかと、ずっと昔から感じていた。つまり、三十にして立ち、四十にして惑わずまでの間もその十年間という時間を生きてはじめて「立つ」のだと思っていた。

立って「何かする」十年間ではなく、
「立つ」までの時間。

立ったあと、それから「惑わず」までの時間。

それぞれ十年必要とするのではと、思っていた。

惑うことに意味があると中年を説く河合隼雄に言われて納得出来た。

社会に出てはいるが、未だに自分のしっかりとした役割を求められてもいないし、求めてもいない。自分が興味あることは、社会や労働とは少し離れている。しかし、社会の一員であることを感じるように振る舞って毎日社会や家庭で役割を演じている。

未だにそこに確固たる答えを見つけられずに惑っている。それを肯定された。

強固に見えて不安定な毎日を生きている。紙一重のバランスをなんとか保っているのは、先に逝ってしまった人達を見てきたからに過ぎない。案外脆い。薄い壁を分厚い壁だと信じこませて何とか保っている気で生きている。弱音を吐こうものなら聞かれてしまうことを知っている。厚い壁だから聞こえないと思っているだけで、本当はそうではないことを知っているから本音で話せない。それを皆、知りながらも隠すように生きている。

この著書の中で解説している小説の中の一つに、河合隼雄は大江健三郎の「人生の親戚」を選び、そこから「救い」について説明している。

私は、大江健三郎の「人生の親戚」を読み終えて、まさに救いについて考えていたタイミングで、本当に偶然にこの河合隼雄の「中年クライシス」を読んでいる。偶然なのか、必然なのかは紙一重な気もする。

自分が知り得なかった解釈ではっきりと書かれていて、河合隼雄の読書の落とし込みの凄さを知れた。

私は救いに繋がる「人生の親戚」の意味を考えていた。家族ではないが、お互いに似た境遇で思想を交わしたり、精神的な投影をしたりする意味で使われているように感じた。物語は、簡単に語れるほどの境遇でもなくどうやって生きていくのだという大江健三郎の突き付け方がとにかくすごい。

内面を描くのに印象深い出来事を物語の核に置くのは分かるが、その置かれる立場の現実が想像するのも辛くなるような事象をあえて置いて表現で向かっていっている。私に出来ることはそれを極力簡単に考えることで、なんとか救われようとしている軽い自分を発見する。

物語の本質的な意味を今の自分に重ねていた。「人生の親戚」が、私を救うものならば「なんのはなしですか」と悩みや、日常、誰にも分からないことや感じたことを自由に書いてみたい、それを読みたいと感じているような感情、そしてそれを一緒に楽しむような人達はまさに「ソレ」に当たるのではないだろうか。

何かどこかで共通している「人生の親戚」なのではないだろうか。

今「立った」ばかりの私は「惑わず」までの十年間を思いっきり惑いながらフラフラして進みたい。四十にして惑うのは「何も悪くない」と今知れてよかった。

少なくとも「人生の親戚」に今出会えているのなら、今後必ず私は「惑わず」になっていく気がしている。

そして「天命」を知るまで約二十年。

それまでは精一杯、中年を楽しみたい。案外本当に現在惑わずに出来ている同年代の中年は、人生に於いての楽しみがもしかしたら少ないのかも知れない。そうとでも考えないとやっていられない部分もあるが、現実の価値は人それぞれだから答えは出そうにない。そう思うことで頭の中は少し楽になる。

少なくともそう思って自分はまだまだ惑うことを迎え入れたいと感じている。中年を出来るだけ楽しむ人間でありたい。

良い読書でした。

なんのはなしですか

中年とは何よ。

参考にしました。
意図と違っていたらすみません。






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