娯楽、作家、藝者、お酒、家庭、日常とは物語である。
先日、記事をオススメしていただいた。
自分の書いた記事を誰かが読んでくれていた。
理解はしていたけれど、とても嬉しかった。
嬉しく思った想いは、残しておきたく書いておく。
本当にありがとうございます。
自分の表現や手法、まだまだ目的の途中だが、続けていこうと思った。
こちらがオススメいただいた記事です。
では、引き続きどうぞ。
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宇野浩二
楽世家等
私のメモに、「宇野浩二」の走り書きが記されていた。今思えば、どこでどうやって「宇野浩二」に辿り着いたのかを記しておけばよかった。
私の拙い記憶を辿るなら、谷崎潤一郎と芥川龍之介の論争を調べているうちに興味が出てきたのだと思う。
芥川と交流があった宇野浩二は、芥川賞の選考委員になっている。どういう気持ちだったのだろうか。
私が思う、私と作家の旅の動機付けは、こういう出会いでいいと思う。心に引っ掛かりがあったのだろうから、そこに従ってまずは、近づくのがいいのだろう。
自分に学がある訳でも何でもないのだが、そもそも大卒でもない。自分の思うままに落とし込むのが、私の思う読書である。
「宇野浩二」に触れた私に与えた最初の印象は、小説なのか。事実なのかだ。大正から昭和の初期に創られた10編の物語。巻末で筆者が掲載の経緯を載せているが、主な理由が、
「気に入ってゐる作品であるから」
思わず、笑顔になった。この人面白い。最後には、「読者には興味がないと思うけど、小説の年月を作者の心覚えのために書いて見る。」
と年表が添えられている。
憎めない。憎めないが、とてもとても作品に命を吹き込んでるのが伝わってくる。
どうしても、作品に違和感を感じたので作品について調べた。私の違和感の正体を見つけた。
掲載されているほとんどの物語が、実際にモデルがいるのだ。
つまり、この人は自分の話を物語にする事で一つ一つ自分の中で、自分の存在を認めさせていたのか。
モデルがいると思って読書すると、とんでもない事まで書いている。
結婚している友人が、家族の他に2人の愛人がいて、それぞれに愛情かけてうまく生活している話を小説として発表して、本人と問題になり、もう一度仲直りするまでを書いていたりだ。
そりゃ怒られるよ。というのを惜し気もなく書いている。その時代の暮らし、息づかいが文字を通して伝わってきた。でも、カッコよく見えてしまう。この覚悟と熱量は、今読んでも伝わるのだ。
これは、娯楽だ。
書くことに、情熱をもって、ここまでやるかというところをガンガンアクセル踏んでいる。
私は、こういう覚悟がなく、どうしても批判、否定が出来ない。そう思うことが多いのだが。見なきゃいい。スルーすればいい。で、やり過ごす。
結果苦しくなるのだが。でも、それも本当は違う。人がどうこうではなく、それを面白く書ける技術がないだけだ。
目指す処は遠く遠くである。
カッコいいなぁ。そうありたいなぁ。と思うばかりだが、それを受け取れた自分を今は、良しとするタイプである。
人は人であるが故に、毎日物語の中にいる。
それを生活という時間の中の物語として読ましてくれる。大したことじゃないことも実は、大したことなのだ。
芥川龍之介のことも違う名前で出てくる。
作家、藝者、お酒、家庭。
この時代、どれも切り離せない生活だったのだろう。
やはり、毎日の生活は物語だ。
それを表現出来るだけの力が欲しいと思う。
私の落としどころは、そういうところ。
それが、自分が楽しく出来る方法だと思っている。
この本を読み「宇野浩二」は、私に「牧野信一」を連れてきた。
彼がモデルとなった自死するまでの物語は、彼の作品に触れろと言われている気がした。
そして、ある短編に私が思う、自分の事をこんなにもうまく表現している文章に出会えた衝撃は、ここに残しておきたい。
「僕などは、いつ何を考え出すか、何を云ひ出すか、自分ながら分かりませんよ。それで昨日いつたことも本当なら、一昨日考へたことも嘘ぢやなし、といつて、今日してゐることも尤もだといつた風で、自分でも、どれが本当なのだか、何が何だかさつぱり分かりません。だから、一度くらゐしか会わない人は、僕のことを非常に真面目な男だといふかと思ふと、或る人は又、あんな出鱈目な不真面目な男はないと云ふし、或る藝者はあの人は気がさつくりしてゐていいと云ふかと思ふと、或る女はでれでれしてゐて気障な奴だといふし、それでみんなの云ふことが、それぞれ本当だから驚くじゃありませんか。だが、僕にはそれがちつとも不思議ぢやないんです。ね、同じ人間ですもの、人のすることに何でも出来ないことはない筈だし、また人の持つてゐるものなら、善人の心だって、悪人の心だって、それぞれ自分の中に這いつてゐますよ……。」
いい道標だ。これなんだ。ほんと。
かっけーなー。
なんのはなしですか
やりたい事、生き方が明確になっていく。
そして、藝者さんにも会いたくなってくる。
むしろ藝者さんの事しか、残ってない。