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「『ナニジン?』と迫る線引きの暴力性を超え、より開かれた『わたし』に出会う」温又柔さん『真ん中の子どもたち』

温又柔さんの中編小説『真ん中の子どもたち』、再読。

本作は2017年に第157回芥川賞候補作となり、選評委員の宮本輝さんの発言が物議を交わしたことでも話題になった(「日本人の読み手にとっては対岸の火事」「他人事を延々と読まされて退屈」など)。宮本輝さんの作品が好きで長年読みつづけてきただけに、 あまりの発言内容が信じられず、ものすごくショックを受けたのを覚えている。

『真ん中の子どもたち』の主人公ミーミーこと琴子は、日本人の父と台湾人の母をもち、日本で生まれ育つ。中国語を学ぶため、彼女が上海に向かうところからこの物語は始まる。

著者の温又柔さんは、台湾生まれ。3歳のときに家族で日本に移住され、日本語で創作を行っている。ミーミーのバックグランドは温又柔さんとは異なる設定ではあるものの、台湾語と中国語と日本語が飛び交う家庭環境や、上海でミーミーが経験し感じてきたことなど、温又柔さんご自身と重なるところもあるのだろうな、と想像している。

中国語力をあげようとはりきっていたミーミーだが、家族が褒めてくれた彼女の中国語は、語学学校の先生や現地で出会うひとびとに「南方訛り」だとか「わるい癖」だといわれ、「(母親が台湾人なのに)どうしてその程度の中国語しか話せないの?」と疑問を投げかけられる。

ミーミーはそういった言動に都度傷つき、揺れ、悩む。そして、自分と同じく「普通の日本人」ではない玲玲(リンリン)や舜哉(しゅんや)と親しくなるにつれ、彼らのように中国語やアイデンティティに対してきっぱりとした考えをもちたいと願う。

玲玲は台湾人の父と日本人の母をもち、東京で育ちながらも家庭では中国語で育った。彼女は自らを台湾人だといい、父と自分が話す中国語を「南房訛り」呼ばわりする大陸の中国人に激怒し、「普通語」もマスターして自分を認めさせてやると息巻く。

舜哉は帰化した中国人の両親のもとに生まれ、自身も日本国籍を持つ。自分は「中国人でもあり、日本人でもあり、どちらにもなれる」といい、ミーミーにも「ミーミーの心境次第で、日本人と台湾人を行ったり来たりすればいい」と話す。

温又柔さんの存在は冒頭の出来事を通じて知ったのだけど、この小説を手にとったのは、のちにTwitterやインタビュー記事を通して出会い直したのがきっかけ。その発言に共感することがとても多く、彼女がどんな小説をかくのか知りたくなった。

でも、実際に小説を読み始めてみると、ミーミーの物語に強く魅了されながらも、ショックのほうが大きかった。

国家や民族と結びつくアイデンティティのありようには長年関心があったので、「自分はナニジンなの?」というミーミーの悩み自体に衝撃を受けたわけではない。大学の卒論では日本のナショナルアイデンティティを論じたし、ソウルでの院生時代には在韓在日コリアンの方々にアイデンティティをテーマにインタビューさせてもらい、修論を書き上げた。

ショックだったのは、親しい友人が多く、ずっと親しみを抱いてきた台湾のことを、なぜわたしはこんなにも知らないのだろう、ということだった。韓国の近現代には強い関心を持ちもっと知ろうとしつづけてきたのに、どうして同じ視線を台湾に向けてこなかったんだろうと。そのきっかけはこれまでにいくらでもあったはずなのに。

台湾には、中国語とは異なる固有の言語があるというのはおぼろげながら認識はしていた。でも、台湾で話される中国語が大陸では「南方訛り」と称されたり、台湾の家庭でそれらがちゃんぽんに話されていることは、全然知らなかった。もっというと、同じ家庭内でも、日本語教育を強制され流暢な日本語を話す世代と、日本語使用を禁止された世代が混在する、ということも想像したことがなかった。
(余談だが、先日オンライン中国語レッスンで大陸出身の先生に「台湾に語学留学に行きたい」と話したら、「台湾だと変なクセがつくから、大陸できちんとした中国語を学ぶことをおすすめします」と断言され、本当にそういう言い方するのか!とこれまた衝撃を受けた)

この小説の冒頭には、自分の母が「普通の日本人」ではないと自覚し始めた頃のミーミーに、「お母さんはガイジンなんでしょ」とせまる同級生たちの姿が描かれている。そこではミーミーに思いっきり感情移入し、同級生たちの無知と無神経さに憤慨しながらも、わたし自身、台湾に対して無知で無関心だったのだなあと、この小説に思い知らされたようだった。

本作をめぐるBuzzFeedによるインタビュー記事内で、温又柔さんはこう語っている。

小説の中で、アジアのなかで歴史的に日本語が持ってきた政治性というのも描いています。そして、ルーツというのも大きなテーマではありますが、大事なのは、それが琴子や玲玲のすべてではない、ということです。私は、言い切れないもののなかに人のおもしろさがあると思っています。
(*琴子=ミーミー)
線引きされていくこと、決めつけられていく自体の暴力性というもの描きたいんです。

『真ん中の子どもたち』が発行され、温又柔さんがこのインタビューに答えていた2017年ほどではないかもしれないけれど(というかそう信じたい)、彼女のいう線引きの暴力性はいまなお、まだまだ、日本のあちこちでみかける。

自ら気づけたら、そしてその暴力に抗い、変えるためのアクションをとっていけたら、本当は1番いいのだと思うし、そうなっていきたいと強く願ってはいる。でも同時に、世の中はありとあらゆる暴力に満ちていて、すべてのことに同じように意識的であることも、現実的にはまたむずかしかったりもする。

だからこそ、わたしは『真ん中の子どもたち』のような小説にもっと出会いたいし、もっと読んでいきたいと切に思う。なにかを学んだり、理解したりするために「道具」として小説を使う、という意味ではなく、小説は、そのような暴力性に対峙するひとびとの声を伝えてくれるからだ。

その声を聴くことで、わたしたちは知らなかった痛みをすこしだけ想像できるようになるし、世界をみる視線もすこしだけ広げることができる。

温又柔さんはジュンパ・ラヒリ(インド系アメリカ人)や、イーユン・リー(中国系アメリカ人)の作品のような移民小説を書いていきたいともいう。小説を通して、「もっと開かれている『私』」、「もっといろんな言葉が混ざっていく日本語」を描いていきたいと。

わたしも、温又柔さんの小説をもっと読んでいきたい。台湾のことももっと知りたいし、台湾の友人たちにも、この小説のことを話して感想を聴いてみたい。修論インタビューをきっかけに親しくなった友人たちとも、この話をしてみたい。日本にこれからどんどん生まれるだろう移民小説にも出会っていきたい。

温又柔さん『真ん中の子どもたち』(集英社)
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記事内で温又柔さんの発言を引用したインタビュー記事はこちらです。

チョ・ナムジュ『彼女の名前は』もまさに声を届けてくれる小説だなあと感じるとてもいい作品でした。よかったらこちらのレビューも読んでみてもらえると嬉しいです。



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