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私刑で「犯罪者」を認定する野蛮

有罪判決を受けたわけでもなく、まして逮捕起訴もされてない人物を法的な意味で犯罪者であると認定できるなら、司法は存在理由が無いことにもなり、そんなものは法治国家ではないことにもなる。当たり前と言えば当たり前の話だが、近頃は「法を超える」のが流行りなのか、そんな当たり前のことがなかなか通らない世の中にもなっている。

テレビや週刊誌といったマスコミを蛇蝎のごとく嫌う人はずいぶん増えたにもかかわらず、彼らの流す噂だけで証拠など何も無くてもその罪を事実認定し、犯罪者として社会から抹殺できるようにもなっている。これはまさにエンガチョとか魔女狩りと同じ私刑(リンチ)で、例えば教会の異端審問官が「魔女だ!」と言えば魔女になるのと同じくらい野蛮な事でもある。

罪を立証するのに必要なのは証拠であり証言ではない。証言者を何人連れてこようと証拠が無く罪の立証ができなければ法的な意味で犯罪者と認定できるわけがなく、それが法治国家における無罪推定原則でもある。良心的な人には想像も及ぶまいが、全くの事実無根であるにもかかわらず、相手を貶める目的で被害をでっち上げ、後に全くの虚偽だったことが判明した事例も過去に存在する。

仮にその被害が本当だったとすればその被害者にとっては辛い部分もあるわけだが、それでも罪の立証ができなければ冤罪を生み出すことにだってなりかねない。結局「法」よりも「空気」が上位の価値であり、そういうムラビトだからこそ法で明定されてもないマスクが3年も続いたわけで、この国は永久に法治国家として成熟しないのかもしれない。

それに加え近年はあまりにもポリコレが強すぎて、芸の道を生きる者にまで品行方正さが求められすぎている。品行方正でないから魅力があり、そうであるがゆえ支持していたことなどすっかり忘れ、マスコミが煽り出した強者を王座から引きずり下ろすような、弱者の革命願望を満たすような祭に酔っている。

祭が盛り上がりさえすれば何が真実かなどはもはやどうでもいい。革命が齎す祭のあとに残るのは破壊と混沌であり、社会は漸進的な改革でしか前進することはない。


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