千葉大維(Hiroyuki Chiba)

画家 思い浮かぶ言葉と自作絵画(画像は転載・加工禁止)

千葉大維(Hiroyuki Chiba)

画家 思い浮かぶ言葉と自作絵画(画像は転載・加工禁止)

最近の記事

意識の内的現象の実在性に関する一考察(導入部)

私たちの意識には、どうしてもそれ固有のもの性、決して逃れようがなく内側にべったり貼り付いた実在性というものが備わっている。なぜ意識から、実在性というものを抽き出して来ることができるのかと言えば、意識とは現象だからである。意識は揺らぎ、変化することの内に現象を映し込み、己の内に取り込んで、やがて両者の差異は限りなく小さくなる。意識即現象、現象即意識というべきである。この現象は変化するゆえに頼りなく、また信頼のおける実在である。なぜなら実在とは不変かつ可変であり、常に己自身を求め

    • +2

      自己制作絵画二篇

      • 「クリスチャン・ブッディスト」について

        以前から欧米で「クリスチャン・ブッディスト」と呼ばれる人たちが増えてきているという。 日本でも一部の新興宗教が仏教とキリスト教を混淆した教義を唱えていることは知っており、好ましく思っていなかったが、つい最近自分が20年以上続けてきた仏教徒としての自分にクリスチャンとしての自分を上書きしたことから感じられることは、仏教的なものの見方や感じ方は当分抜け切らないだろうし、抜け切らなくてもいいのではないか? ということであった。そこで社会現象としての「クリスチャン・ブッディズム」に

        • 自己制作絵画《始源》Ver.2

          自己制作絵画《始源》

          自己制作絵画《始源》

          自己制作絵画《宇宙》

          自己制作絵画《宇宙》

          私の夏は消え去った

          私の夏は消え去った 深緑の校庭 遠く聴こえる花火 私の夏は消え去った 母の腕(かいな)に抱かれるような 私の夏は消え去った 父の後追い走り出すような 私の夏は消え去った 私の夏よ なぜお前は消えたのか あの日を境に今日までずっと 私はお前を追いかけたのだ 私の夏は消え去った かけ放しのテレビ 客のいない料理店 私の夏は消え去った 思い出が一番込み上げる季節に 私の前でお前は消えた 暗闇の中に吸われて行ったね 私の夏は消え去った

          詩は死と読み換えることができる。 死は生の消えゆく途上の匂いである。 生は性でもある。 そして性は死の準備である。 私は幼い頃、肥料の臭い立ち込める畑の中で、 蝶を捕まえたことがある。 蝶の羽根を指でつまんだのだ。 蝶を逃すと、指から甘い匂いがしてくる。 それこそは蝶の羽根の性なる匂いだったのだ。 死と隣り合わせの生は甘美なものだ。 そこに死という不可視の暗い穴がある。 そのことを認識しながら生きるとは甘美なものだ。 死は永遠に通ずるからである。 永遠なるものは蝶のよう

          非対称性についての思考

          非対称性についての思考

          +3

          抽象絵画《視界文書》の3段階

          抽象絵画《視界文書》の3段階

          +2

          抽象絵画二篇

          #オンライン展覧会 #アート #絵画 #抽象絵画

          絵画制作小論

          私は、現実の存在物でなく、意識の上に昇る想念を対象としてこれを分析し、再構成することをもって絵画の方法論とする。 無意識を具象的に露出させることは私の絵画の目的のひとつである。 私たちの目の前にあるものは前意識に刷り込まれ、暗号化されて無意識の中に落とし込まれるという過程を経て、ありのままに見えているかのごとく存在している。 前意識というシュレッダーにかけられ、暗号化された現象を無意識の中から取り出して再構築するのである。 先に 「私は、現実の存在物でなく、意識の上に昇る想念

          国立新美術館『MANGA都市TOKYO』展

          国立新美術館で『MANGA都市TOKYO』展を鑑賞しました。中に入ると巨大なジオラマを取り囲むかたちで漫画、アニメ、ゲーム、特撮などの資料が展示されていました(ほとんどは撮影不可)。 東京は戦争と災害による破壊と再生を繰り返してきました。日本のMANGAはそのイメージの反復とも言えます。 戦後復興と高度経済成長を果たしても、バブルが崩壊し、震災に襲われ、コロナ禍の世界を生きる今の私たちの目は、日常のささやかな幸せに向けられているとしていくつかの作品が挙げられていました。

          国立新美術館『MANGA都市TOKYO』展

          存在感

           身体はその全てが他者を感知するセンサーである。肉体的に触れ合う以前にも五感を通して他者の存在を感知すること、存在感に触れることがすでに私たちの身体的レベルでの交流となっている。存在感とは五感の総合であり、身体的なものであり、これを通して、ここにおいて心が交流する。相手の存在感によって身体が暖かくなったり寒くなったりするのはそのためである。五感の総合に心が乗っかったものが存在感であり、それは肉体的触れ合いを抜きにしても他者と交流する身体である。  ここで宮澤賢治の次の詩(『春

          人間関係の並列/直列接続

           自己と他者というのは各々領土を持っていて、取り引きはするけれども通常はお互いに交わり合うことなく境界線を引いて待っている諸国のようなものである。他人同士の彼らはいわば並列接続している。そこを強引に直列接続しようとすることは「侵犯」である。人間関係において配慮がないこと、そこからさらにエスカレートして法に悖る行為がそれに当たる。  しかしながら、家族や恋人との関係においては、関係を結ぶために肉体的接触を避けられないところから、直列接続をある程度許容しなければならない。と言って

          人間関係の並列/直列接続