人間関係の並列/直列接続
自己と他者というのは各々領土を持っていて、取り引きはするけれども通常はお互いに交わり合うことなく境界線を引いて待っている諸国のようなものである。他人同士の彼らはいわば並列接続している。そこを強引に直列接続しようとすることは「侵犯」である。人間関係において配慮がないこと、そこからさらにエスカレートして法に悖る行為がそれに当たる。
しかしながら、家族や恋人との関係においては、関係を結ぶために肉体的接触を避けられないところから、直列接続をある程度許容しなければならない。と言っても、それは法を犯していいということではない。
人間関係において肉体的に過剰に接触することを「一線を超える」と言う。愛情を肉体的接触において表す家族や恋人との関係は常に「一線を超えた」ものであり、ゆえに「他人ではない」。他人が他人でなくなること、ここに直列接続的な人間関係がある。
見知らぬ他人への暴力もまた自他の一線を超えるものだが、ここで家族や恋人との関係を考えるならば、セックスや出産もまた自己の肉体——実存への他者の割り込みであり、一種の侵犯である(このことからも、エロティシズムと侵犯は密接な関係にあると言える)。暴力は生の否定的力、エロスは肯定的力だが、どちらも「自己の他者への割り込み(直列接続)」である点においては共通している。
ちなみに映画のような娯楽は常にエロスと暴力を描いてきたが、そうした作品が人気を博するのは、それが「自己の他者への割り込み」を想像上に許すからである。そのような非日常的な体験が、日常とのコントラストにおいて観客を興奮させるから興行として成り立っていると思われる。
私たちは、日常において並列接続的人間関係を実践し、非日常において直列接続的人間関係を実践している。
家族や恋人との関係は非日常的なものなのだろうか。非日常的とは言えないが、彼らとの関係において得られる多くの喜びや悲しみ、学びはひとりぼっちの日常を超えたものとは言えるだろう。
※人間関係の並列/直列接続という発想は、昔読んだ長田弘氏の詩による。