小説「川っぺりムコリッタ」〜小さな幸せの見つけ方
主人公の山田は、高校生の時に母親に捨てられ、食い詰めて犯罪に手を染め刑務所に入り、出所後は北陸の塩辛工場に勤めることになる。
これだけを見ると、山田のこれまでの生い立ちは幸薄い惨めな人生と捉えることもできる。
私も最初はそんな感覚で、この小説を読んでみようと思った。
ネットカフェの住人、その日暮らしの日雇いやホームレスなど、社会の片隅に追いやられるように生きる人々を取り上げたノンフィクションのドキュメンタリー番組などがあると、私は必ず観てしまう。
それは興味本位で見たいというのではなく、明日は我が身と思ってしまうから、観ずにはいられないのだ。
自分は正社員だったこともあるけれど、フリーター、派遣社員、契約社員、フリーランスと一通り経験してみて、今のご時世、会社が倒産したりクビを切られたり、仕事がなくなり、いつあちら側に行ってもおかしくない、と痛感している。
いてもいなくても同じ存在の自分。
このままずっと変わりばえのしない毎日を送るなら、出所後は川べりに住みたいと山田は思う。
いつ自然災害が起こるか分からない、常におびやかされている環境に身を置けば、生きている実感が湧くかもしれない、と彼は考えた。
誰とも関わらず、つつましく、目立たず、ひっそりと暮らしたい、という山田の孤独感に、心を寄せてしまう自分もいた。
私も40代に入るまで、自分は独りで生きていかなければならない、と思ってきた。遅ればせながら家庭を持った今でも実は、いつ独りに戻るかわからないとも思っている。
山田はさらに、孤独死した父親と自分の未来の姿を重ね合わせたりもするのだが、負の連鎖というのだろうか、私も親のようになってしまうのじゃないか、そうなりたくないと思ってずっと生きてきた。
実際、ハイツムコリッタに住むまでの山田の人生には、暗雲が垂れ込めていた。
そんな山田が、ちょっとポンコツで世間から落ちこぼれたようなムコリッタの住人と関わることにより、少しづつ生きる喜びを取り戻してゆく過程が、時にはクスっと笑えるユーモアも交えて描かれていた。
「ささやかなシアワセを細かく見つけていけばさ、なんとか持ちこたえられるのよ」
そう言う隣人の島田は、図々しいけれど憎めない、山田にとって初めて出来た友達だ。
風呂上がりに飲む牛乳
美味しく炊けたご飯にイカの塩辛
島田自家製の野菜の漬物
妖艶な大家の南さんからお駄賃としてもらうミルクキャラメル
溝口親子の部屋に押しかけて食べた極上すき焼き
心と身体の飢えを満たし、ささやかな幸せを積み重ねることで、固まっていた山田の心もほぐれてゆく。
そんな日々の暮らしは、読んでいるこちらも救われたような気持ちにさせてくれた。
牟呼栗多とは、仏教用語で時間の単位を現し、1/30日=48分
刹那はその最小単位で、1/75秒
刹那にも一瞬の時間があり、その連続が1日となり1年となり、人の一生となってゆく事を知った。