「スナックカルチャー論」延長戦 〜文学かぶれが語る雑多な所感〜
*2022年1月13日に一部修正しました。
いつもお疲れさまです。
現実という名の土中に潜るモグラと化していたここ最近は、ある記事について執筆していました。それが「蓼食う本の虫」さんに寄稿させていただいた『物語を消費せよ──「動物の時代」の文学論』という記事です。
これまでに「蓼食う本の虫」さんでは三度寄稿させていただきまして、今回はそれよりも4倍ほど長い文章になります。想定の文字数を大幅に超えてしまったにも関わらず、快く掲載してくださったatohsさんには感謝してもしきれません……。
さて、この記事の趣旨は、文芸界隈が衰退している現状を打破するためのヒントを、大塚英志・東浩紀両氏の著作から学ぼうというものです。
そこで私は、結論で「前向きな消費」を促す「後世に残らない文化」として「スナックカルチャー」なるものを提唱しました。
これはスナック菓子を食べるような軽い気持ちで消費できる文化という意味で、ハイカルチャー/サブカルチャーという二項対立に囚われない文化の在り方を示したものになります。
私がこうした「スナックカルチャー論」を提唱した理由は、東氏の「ハイカルチャーだサブカルチャーだ、学問だオタクだ、大人向けだ子供向けだ、芸術だエンターテインメントだといった区別なしに、自由に分析し、自由に批評」する、という『動物化するポストモダン』(2001年、講談社現代新書)での発言を受けてのものだということを記事では説明しています。
ただ、それとは別に、これまでの文学があまりにも“人の不幸を求めすぎていた”ことへの疑念も理由の一つとしてあったのです。今回はその疑念について語りたいと思います。
悲しみから生まれる文学
これは私の考えなのですが、これまでの文学は自分の中にある劣等感や、他人や社会に対する不満を吐き出すツールとして用いられがちで、「文学は自身の身を削る行為だ」といった論調を、作家・編集者・評論家・研究者とあらゆる立場の文学者が異口同音に語ってきたと思うのです。
今年の7月14日に受賞作が発表された芥川・直木賞。その中で、直木賞を受賞した佐藤究氏の『テスカトリポカ』における過激な暴力描写、人身売買の描写などに対して、次のような講評がなされたといいます。
*現在、上記の記事は有料となっております。
この林真理子氏の講評に対して、Twitterでは否定的な意見が多数寄せられていました。
「文学に希望や喜びを求めることは筋違いだ」
「暴力や犯罪といった社会の裏側を描くことでむしろリアルな人間が描ける」
「そもそも過去の文学作品に希望と喜びを与えてくれる作品はあったのか」
様々な方の意見を要約すると、上記のような内容になります。
確かに、皆さんの仰ることは一理あります。これまでに書かれてきた文学作品は、どちらかといえば悲劇や絶望、あるいは虚無感を描いたものが多いように思います。『人間失格』『羅生門』『変身』『蝿の王』……etc。
国内外問わず、「希望の物語」とは真逆に位置するような作品は存在していて、なおかつそれらの作品群は高い評価を得ています。
また、悲劇や絶望といった負の側面は作品に留まらず、時として作家の生き方にも現れています。
「文学とは何か」「人間とは何か」と突き詰めた末に自死、病死してしまった作家が一定数存在します。森鴎外、梶井基次郎、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、など。みな日本を代表する文豪です。海外においても、アーネスト・ヘミングウェイ、ヴァージニア・ウルフ、エドガー・アラン・ポー、などの方々がいらっしゃいます。
彼らが「書くしかない」という切なる思いに突き動かされて、数多くの名作が生まれたことは紛れもない事実です。
しかし、それは果たして文学にとって健全な在り方だったのでしょうか?
作家が苦しい思いをして書き連ねた作品が得てして傑作となるのだとしても、それを無闇に求めたがる受け手の態度は、側から見てどうなのか。このようなことを考えてしまうのです。
純文学と称して、大切な人が死んでしまう物語がどれだけ多く生まれてきたことでしょう。謎解きを楽しむ名目で、どれだけの殺人が描かれてきて、どれだけ凄惨な死に様が描かれてきたかは数知れません。
所詮は作り話じゃないか、と一笑に付す方もいらっしゃることでしょう。ただ、そうした作り話のために命を失ってしまった人も確かに存在するのだということを見逃してはいけません。
とあるタヌキの昔語り
ここで昔話をしましょう。と言っても数年前の話ですが。
私が大学生の頃、文芸部に所属していました。
新入生歓迎イベントの時に部活紹介のテントで出会った方々は、一癖も二癖もありつつ、優しい方々でした。
そんなみなさんがいたからこそ、私は文芸部に入部し、今でも創作活動を続けています。
ただ、その裏では悲しいこともありました。うつ病に悩んでいる人、事故に遭って生死の境を彷徨った人がいました。それだけ苦しい思いをしていても、やはりみなさんは書くことを止めませんでした。
それを側から見ていた私は、胸が締め付けられるような思いでいました。先述した文豪の例といい、小説を書くということはそこまで自分を苦しめないといけないのか。ここ数年の私は、そんな自問自答を繰り返していました。
とまぁ、暗い話になってしまいましたが、文芸部での活動はとても楽しかったです。
仲間内で自作の小説を読み合う楽しさ、同人誌を作る大変さ、チームで創作をする難しさ、など多くの学びを得ることができました。やっぱり誰かと一緒に創作活動に打ち込むのは良いものですね。
活動の過程で色々なトラブルもありましたが、今となっては良い思い出です( ̄∇ ̄)
虚構は不要不急の産物なのか?
話は変わりまして、「スナックカルチャー論」の冒頭で、柄谷行人氏の『近代文学の終り』(2005年、インスクリプト)について触れました。
柄谷氏いわく、「文学がかつて持った役割」は今では機能しなくなっていて、代わりに娯楽のための作品が量産されるのがこれからの時代なのだというのです。
かつての私は、「そんなわけないじゃん!」と反抗心を剥き出しにしていて、noteでもその旨を記しました。
ただ、それから1年が経った今となっては、柄谷氏の宣言が決して的外れなものではないということを痛感しました。
なぜ、文学が求められなくなっているのでしょうか。
それは、虚構に没頭できないほど現実が辛く苦しいものになっているからではないかと思うのです。
2011年の東日本大震災、2020年から続く新型コロナウィルスといった災害が数年単位で発生していることから、戦争が起こらなくとも今の世の中は悲劇に満ちていることが窺えます。
現実がこれだけ悲惨な状況に陥っていれば、もはや虚構は単なる気休めにしかならず、それ故に心から虚構を求めることを人々はしなくなっているのではないのでしょうか。
虚構を通して現実を浮き彫りにする「人工環境のリアリズム」、騙されたと分かった上で作品にのめり込む「オタク心理」、などの概念を東浩紀氏は解説していますが、それが真の救いにはなり得ないことは同氏も自覚的だったようです。
例えば、「異世界転生」を題材とした作品は、ネット小説から始まり、漫画やアニメなど様々にメディアミックスを展開しています。しかし、今や「異世界転生モノ」は従来のライトノベルよりもはるかに速いスピードで流行り廃りが起きてしまっています。さながら使い捨てカイロのように、物語が消費されているのが現状なのです。
例えば、「バーチャルYouTuber」が最先端の文化で時代のシンギュラリティなのだという風潮があります。
確かにVR技術は日を追うごとに発達していて、バーチャルYouTuberの方々のご活躍も目を見張るものとなっています。
いつか仮想世界が現実世界と対等な存在となりうるのではないか。そんな夢を抱くほど、VRは新しい可能性を見出してくれます。
しかし、悲しいことに仮想世界は未だ現実世界の付属品という域を超えられていません。「バーチャルYouTuber」の中には、現実のゴタゴタに巻き込まれて、炎上、引退、分裂などの事態に陥っている方が一定数いらっしゃいます。いくら魅力的なアバターを生み出したとしても、現実世界からの圧力によって簡単に夢を打ち砕かれてしまうのです。
虚構は、どこまでいっても虚構でしかないというのでしょうか。
ゆとりある文学
現代における世界規模の悲劇として、コロナウィルスが猛威を奮っています。しかし、それはマクロな視点から見た様相でしかなく、ミクロな視点で見れば、無数の悲劇が起きていることは事実でしょう。
悲劇に塗れたこの現実の中では、もはや虚構にのめり込むだけの心的余裕を人々は持ち合わせていないのではないのでしょうか。そのような状況下で、文学を書くために傷を見せつけろ、などと要求することは鬼畜以外の何者でもありません。
直木賞の講評で、林真理子氏が語った「希望の物語」について、まるで小学校の道徳じゃないかという声もありました。これは、文学に希望を求めることは幼稚な発想だ、という意味合いなのでしょうか。
もし、その通りなのだとすれば、この意見は恐ろしいほど差別的な考えに満ちていることになります。子どもにも理解できる道徳を蔑ろにするような価値観を、文学のスタンダードにしてしまうことがどれだけ危険なことか。本当に文学への愛情があるのであれば、一度ご自身に問うてみていただきたいです。
作家が虚構のために自らを痛めつける必要はどこにもありません。そういった作品が生まれることは否定すべきではありませんが、それを必須の条件であるかのように吹聴する文壇は滅びて然るべきというのが私の本音です。
後世に語り継がれるほどの名作なんて望んで書く必要はありません。作家は自らの心をもっと労っていいのです。スナック感覚の創作でもいい。もっと気楽に創作を楽しんでいただきたいです。
文学などというものは、作家が無理して生み出す必要もありません。読み手が各自で発見することもできるのですから、どうかご自愛ください。作家さんが生きていらっしゃるだけでも、読み手は嬉しいのです。
以上の思いから、私は「スナックカルチャー論」を提唱したのです。これがどれだけの人に届くかは分かりません。人目に触れることのないデジタルタトゥーとして、広大なインターネットの海に埋もれるだけ、という未来もあり得ます。
しかし、それでも書かずにはいられませんでした。これこそが私なりの文学なのだと信じて。
〜謝辞〜
『空の境界』論をnoteで載せた時にも書いていた謝辞です。
今回もお世話になった方々に向けて書かせていただきます。
まず、記事の要となる『物語消費論』の作者、大塚英志氏と、『動物化するポストモダン』の作者、東浩紀氏へ。
拙稿を書くにあたって、お二方の著作を大胆に要約したことをご容赦いただけると幸いです。お二方のサブカルチャーならびに日本の文化に対する想いを、未熟ながらも精一杯受け継いだと自負しております。
次に、現代の文芸界隈に関して、大いに示唆を与えてくださった日谷秋三氏へ。
日谷氏が「蓼食う本の虫」へ寄稿してくださった記事を読んだことで、私も日本文学に対する危機意識を明確に抱くことができました。一切面識はございませんが、勝手ながらに同志だと思っております。
拙稿を読んでくださるかは定かではありませんが、あなたの文学愛ゆえの批判を真摯に受け止めて、私も文学の新しい可能性を考察したことを、ここに記しておきます。
そして、冒頭でも触れましたが、想定の文字数を大幅に超えてしまった拙稿を、快く掲載してくださったatohs氏へ。
今回で四度目の寄稿となりますが、今回の記事が私の集大成とも呼べるものに仕上がりました。おかげさまで、大学時代に理解が追いつかなかった大塚・東両氏の著作に再び向き合うことができ、それによって私の文学観をアップデートすることができました。
次回もよろしければ、寄稿させていただけると幸いです。
先駆者の皆さんが渡してくださったバトンを勝手ながら私が受け取り、拙稿を書き上げるに至りました。皆さんへ、重ねてお礼を申し上げます。
ということで、これからも地道に文学を追い求めていこうと決意を固めた私は、次なる執筆に向けて構想を練るのでした。(未完)