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学校の簡素化を。

まず授業以外に中学、高校では部活動がある。運動会や文化祭、合唱コンクール、遠足、修学旅行といった年中行事がある。クラスには、掃除当番、給食当番があり、班、係などの日々の活動がある。/こんなに人と一緒に何かやっていたら、近く感じる人が増えるのは当たり前のことだ。/けれども授業でもないこうした活動は、考えてみれば奇妙だ。これらは“特別活動”と呼ばれていて、世界でも珍しい活動なのだ。「日本式教育」「海外では一般的に行われていない」と教育関係者は自画自賛している。/あるドイツ人の女性と話す機会があったので、そちらには部活はあるのかと聞いてみた。彼女によれば部活はなく、放課後になったらみんな帰るそうだ。それだけのことにすっかり感心したのを憶えている。毎日の印象がどれだけ違うことだろう。/文科省が発表している特別活動の目標をネットで見てみると、「望ましい人間関係を形成する」と何度も何度も書かれていてうんざりしてしまった。/我々は学校で、人間関係の訓練をさせられていたのだった。

上記の記事より引用

↑こういう一連の「特別活動」は、学校に在籍するASD者にとっては虐待も同然である。

 それには濃密な人間関係が要求されるが、それは人間関係やコミュニケーション能力が欠落したASDにとっては、苦痛の連続でしかないからである。

 毎日毎日、ASD者は学校で自分の能力をはるかに超えたことを期待されるのである。

 だから、(これは世の中への譲歩として言うのであって本来の自分の意見ではないのだが)もしどうしてもASD当事者がそうした「特別活動」に参加しなければいけないというのであれば、指導をつけるべきだと思う。

 あと、そうした一連の「特別活動」が良くないのは、いじめの機会に利用されてしまうからである。
 だから、もし学校からいじめをなくしたいと思うのなら、まずはそうした「特別活動」をなくすか減らすかしたほうがいいと思う。

 さらには、そうした「特別活動」には危険なものもある。
 例えば、女子生徒が放課後一人で日直当番で居残りさせられるのは、身の危険を伴うことである。
(手記には書かなかったが、私は日直当番のとき、いつ暴力を振るわれるのではないかという、非常な恐怖を味わっていた。)

 思うに、学校という場所は詰め込み過ぎなのである。
 文科省の説明では、そうした一連の活動は、上記の引用にもある通り、「望ましい人間関係を形成する」ためらしいが、そうした人たち、また教育関係者のすべての人たちには、いまいちど、

「君子の交わりは淡きこと水の如く、小人の交わりは甘きこと醴(れい)の如し。」

という格言(荘子)を心の底から噛みしめてほしい。

 学校に行けなくなる、離れる、あるいは見限る子どもたちが増えているのは、まさにそうした「水の如き」な子どもたちが、さらさら流れ出ている状況とも言えるだろう。

 私は、学校は「読み書き算数」(今の時代は外国語やプログラミングも入るが)を教えるだけでいいと思っている。
 自学するための基礎だけ最低限・重点的に学んで、あとは子どもたちがめいめい、自主的に好きなことを中心に学んでいけばいいことだと思う。

 とくに、共同体を貶めて、この国に対する憎しみの感情を煽ったり、不道徳なことを唆したりする“道徳教育”は要らない。
 そうした教育はこの国を維持するうえで、むしろ非常に有害だ。

 ただでさえ、教職員の成り手も急速に減っている。

(掃除などのメンテ系はアウトソーシングでいいと思う。)

 今の時代は過渡期というか、学校制度も崩壊過程にあるといえよう。

 そのような訳で、ぜひ、学校の思い切った簡素化を。◆
(2023.6.18)

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