
【読書記録】すらすら読める歎異抄/ひろさちや
宗教を知りたい
私は無宗教です。
2年程前まで、宗教について無関心に生きてきました。
ただ、ある時に禅について興味を持ち、それ以来宗教に関して少しずつ本を読んでいます。
宗教は、世界の歴史を動かしてきたものです。
「何かを信じること」で人は強い団結力を持って、それが良くも悪くも、歴史を前に進めてきました。
今は無宗教の人も多いですが、SNSでインフルエンサーを信じて真似したりするのも、ある種宗教的なものなのかも、と思ったりもします。
それで救われる人がいるならその人にとっては必要なものだし、でも信じすぎるがあまり他の人を攻撃してしまう、という負の面も生まれることがあります。
結局、「自分の頭で考えて、それをどう使うか」にかかっているのだと思います。
本のこと
すらすら読める歎異抄
ひろさちや
内容紹介
「悪人のままに生きなさい」
一度は読んでみたい『歎異抄』。
大きな活字と総ルビつき原文と、ていねいな対訳、著者による解説もたっぷり。
読みやすさ、わかりやすさNo.1の「すらすら読める」シリーズを文庫化。
わたしたちは憤るべきです。
『歎異抄』は、親鸞聖人の没後に、その教えが歪められ、曲解され、親鸞聖人の教えとは異なったものになっている現状を歎いてつくられた書物です。では、「歎く」というのは、どのような行為でしょうか。辞書によりますと、”歎く”は「深く悲しむ」とありました。ところが、ある辞書には、「悲しくいきどおる」という意味が出ていました。それを見て、わたしは気づきました。われわれは悲しむだけでは駄目なんだ。『歎異抄』を読むことは、憤ることなんだ、と。ーーひろさちや
感想
「往生したければ、善行や修行を頑張らないといけない」
そんな当時の”当たり前”に、「本気で阿弥陀仏を信じて念仏をとなえれば、その時点で往生が約束される。だから、煩悩まみれの今を生きる人たちも大丈夫だ」と逆説をぶちかました親鸞。
親鸞の生きた当時は、飢饉や災害、戦などで世が乱れており、人々は「もう終わりだ」という気持ちでいっぱいだったことと思います。
そこに「本気で念仏をとなえれば大丈夫!」という説が現れたら、それはたしかに爆発的にヒットする気がします。
ただ、ヒットした一方で誤った解釈が広まってしまい、それを歎いて異をとなえたのが、この『歎異抄』。
今の世の中も、ストレスばかりです。
災害、戦争、環境破壊と、様々な問題があちこちで起きています。
もっと狭い視点でみても、仕事や学業、育児などでの生活のストレスも絶えません。
そう考えれば、中身は違えど、親鸞が生きた当時と似ている部分はあるのかもしれません。
親鸞は「地獄こそ我がすみか」というようなことを言っています。
現世”しか”ないと思うから、ストレス(煩悩)にとらわれるけど、“もともとそんなもんだ“と思えば、少しは気が楽になるように思います。
歎異抄を初めて読みましたが、読む人によって解釈が違う、奥深い一冊だなと思いました。
ありがとうございました。
メモ
「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」
参考
noteの記事です。
とても分かりやすい内容で、こちらの本も読んでみようと思います。