「魏志倭人伝」ってなんだ?VOL.1
魏志倭人伝を斬る
誰が言ったか知らないが、いつしか定着した「魏志倭人伝」
雑学の本ででよく見かけます。「魏志倭人伝」なんて本はありません。まあ、そうなんですけどね。似たようなものと言うか「魏書東夷伝」というのがいわれの元なんです。なんで「魏書東夷伝」が「魏志倭人伝」と言われるようになったのか…。
これは想像ですが、ある日偉い日本の歴史学者さんがこんなことを言ったんじゃないかと。
「日本について史上最初に記してあるのは魏書東夷伝かあ。”東の野蛮人の伝記じゃ都合が悪いな。じゃあ名前を変えちゃえ」と。で、もっともらしく「魏志倭人伝」となったんじゃないかなあと。
このエッセーの読者の方から、宮内庁に保管されている「三国志」が「倭人伝」となっているとの情報を頂きました。ということは、もしかすると日本で最初に「三国志」が写本された際に、「夷じゃまずいだろ」との判断がされた可能性もありそうです。情報提供ありがとうございました。
「三国志」とは
「三国志」ってありますよね。西晋の陳寿という人が書いたんですけどね。私も大好きなんですが。大学で東洋史を専攻するまで、私は「三国の志」だと思っていたんです。曹操、孫権、劉備の志を書いた本だと。それが全く違っていたんです。教授によると「志」の字は本当は雑誌の「志」であって言ベンが抜けただけなんだと。つまり「記した物」という意味なんですね。まあ、夢もロマンもへったくれもありゃしない。
「三国志」は陳寿の書いた「魏書」「呉書」「蜀書」という三冊の本を指します。「魏書東夷伝」は魏書の中にある「東夷伝」という”東の方に住む野蛮人の伝記”です。陳寿を含めた儒学を修めた知識人にとって、当時の日本のイメージなんてこんなものなんです。この伝記は日本に住む私たちの事を書いたと言われているものです。
陳寿と「三国志」について
陳寿は西晋王朝に使えた史官です。史官は歴史書を書いて皇帝に献上する役職です。何故そんな役職があるかというと、「自分たちはこんなに酷い王朝を倒して国を作った偉い人たち」ということを後世にアピールするために、歴史書を書いて残すというわけです。日本でもそうですよね。日本書紀を作ったのもこういう理由が一つにはあったのです。
陳寿はたいへんに真面目な人で、嘘は書きたくないというスタンスでした。ですから彼の書いた三国志の原本は、事実の羅列で実に味気ない。当時の噂話とか、自身で確証が取れないことは書かない主義だったんですね。でもその辺のスタンスが評価されて「三国志」は当時からかなり評判の高い史書として珍重されました。
後の南朝宋の時代になって、その簡素さを憂えた時の文帝は裴松之に命じて注釈を付けました。今日私たちが目にする史書の「三国志」はこの人が手を入れた物です。彼の偉いところは、引用資料や自分の注釈であることを明記してある点です。これによってその注釈がどの文献を参考にしたのかよく分ります。陳寿へのリスペクトですね。陳寿は「これは嘘だろう」と判断したような噂話程度の資料は採用しませんでした。そのため、個人個人の伝記が実に味気ないものになりました。裴松之は陳寿が切り捨てた噂程度の資料も敢えて注釈として採用しました。そのお陰で後の「三国志演義」のような痛快歴史小説が誕生出来たわけです。その意味で、「三国志」は陳寿と裴松之の”合作”と呼べるわけです。ポップスでいうなら作曲と編曲者がいるようなものです。陳寿の原曲を裴松之がアレンジを施して、万民に聞きやすくしたということですね。
長くなるので本日はこれまで。