見出し画像

歴史は私の恋人

歴史がロマンだったあの頃

小学生や中学生の頃は、私も歴史に「ロマン」を感じていました。石田三成と大谷吉継の茶会でのエピソードに感動したり、三成の三献茶の逸話に感心したり。あの頃はそういった武将たちの「良い話」に心を躍らせていたものです。でも今は歴史を探求する者の一人として、こういう人情に没入した視点ではなく、務めて歴史とは俯瞰的に付き合うようにしています。

歴史を愛する

テレビ番組に出演している歴史好きな幼い子供たちを見ていますと、実に微笑ましいですね。将来が楽しみでなりません。私はそんな彼らに「それは作り話ですよ」などとは言いません。むしろ絶対に言ってはならないと思っています。彼らにとって歴史はロマンである必要があるし、なによりもを壊したくはありません。それが例え史実と認められない逸話であっても、彼らが感動し涙することは、人としての豊かな感情を育むためには必要なことだと思っています。熱い物語にどんどん心を奪われて欲しいと思っています。

しかし、長じて歴史を探求しようとするなら、そこから是非脱却して欲しいと思っています。残念ながら、人はサンタクロースが実在しないこといつの日か知る運命にあります。歴史もそれと同じだと思います。いつまでもファンタジーの世界に夢を追うことは出来ません。歴史とはいつか「正面」から向き合うことになります。だからこそその日まで、子供たちには歴史に飽きることなく、ロマンを追い求めて欲しいと思っています。

歴史の哀しい一面

長島に住む知人にとって、織田信長今でも忌むべき存在なのだそうです。織田信興をはじめ、信長の親族が多数長島の一向一揆に殺されています。信長の怒りは頂点に達し「信長公記」によれば、生き残ったおよそ二万人の人々が、生きながらにして焼き殺されたと言います。450年近く経ってさえも信長は嫌われている。この事実を知ると、いかに信長の所業が惨たらしく、残忍であったのかうかがい知ることが出来ます。しかしその一方で、この国における信長の圧倒的な人気ぶりを、どう考えたら良いのでしょう?私はいまだに答えを用意することが出来ずにいます。「所変われば」とは本当に良く言ったものです。

知りたくないことを知り、考えたくないことも考えなければならない。大人になるということはそういうことです。名も知れぬ人々の犠牲を無駄には出来ません。私たちはその意味でも、歴史を教訓として活かす必要があるのではないでしょうか。歴史は決して過去の遺物ではありません。それは未来への「懸け橋」なのです。歴史を知ることでより良い未来を築くことが出来る。私はそう信じています。

歴史は「恋人」

今はロマンでなくても格好悪くても、事実が何であったのかを知りたい。歴史は私にとって「恋人」に等しい存在です。私は今、そんな恋人との絶妙な距離感模索しています。皆さんにとって、歴史はどんな存在ですか?パートナー?それとも…。

                              おしまい

いいなと思ったら応援しよう!