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源義経が粛清された本当の理由とは何か?
日本史上最も有名な面接?
黄瀬川宿に滞在していた頼朝の目の前に、突然一人の若者が現れます。ご存じ源義経です。しかし頼朝はなぜ、彼を簡単に「弟」と認識できたのか?マイナンバーカードも無ければ、免許も無い時代。頼朝は何を根拠に義経を迎え受け入れたのでしょう?ご存じのように、義経が連れていた郎党が奥州藤原氏にゆかりのある佐藤兄弟だったからですね。「吾妻鏡」では、藤原秀衡の許可を得ず義経が彼らを連れ出したように書いてありますが、もちろんウソです。そんなことが出来るはずがありません。彼らは秀衡の重臣である佐藤基治の子です。許可なく彼らを勝手に連れ出すことなど、出来るはずがありません。
その頃子供のいなかった頼朝は、弟である義経を「養子」に迎えます。阿野全成が義経より先に頼朝に目通りしていますが、頼朝は涙を流して歓迎しているものの、義経と比べると大した処遇はしていません。義経は奥州藤原氏というバックボーンを持っていたため、頼朝がそれを強く意識したためだと思われます。しかし頼朝は、義経の能力にピンと来たのかも知れませんね。その後の義経の活躍はご存じのとおりです。
義経の戦い方
一般の理解では、義経の戦い方は当時の常識を覆すようなトリッキーなものだったと思われています。しかし実際はどうだったんでしょうか?一例を挙げましょう。
有名な「鵯越の逆落とし」で勝利したという一の谷合戦。実は鵯越は、巷間言われているような動物しか通れない断崖絶壁ではなく、摂津国昆陽野(兵庫県伊丹市)から福原へ向かう際に必ず通る山中の間道でした。しかも鵯越を攻めたのは義経でなく多田行綱です。彼は福原周辺の地理によく通じていたと言います。義経は戦の仕上げを行った感じです。
義経が西の一の谷を、範頼が東の生田の森を攻めて平家の注意を引き付けている最中に、行綱が鵯越を突破して、(中略)背後に敵を抱えた平家軍は動揺し、その隙を見逃さず義経が一の谷を攻略した
つまり、義経は「逆落とし」という生死を掛けた一か八かを挑んだわけでなく、戦略的に堅実な方法で勝利しているのです。壇ノ浦も潮の流れ云々で勝利したように言われていますが、現在では否定されていますね。義経は熊野や河野水軍などの軍閥を事前にネゴシエーションして仲間に加え、水軍で優位に立つ平家を軍事的に上回る兵力を確保したうえで戦っているのです。決して奇策を弄した結果ではありません。
頼朝の悩み
屋島の戦いで勝利を得た頼朝でしたが、どうやら義経の活躍を危惧していたようです。実は鎌倉の正規軍は義経ではなく、あくまでも範頼が率いる軍団でした。この軍団には頼朝と一緒に戦ってきた、坂東の御家人が多く参加していたのです。頼朝としては、彼らに軍功を積ませたかったわけです。ところが実際は義経が活躍してしまいます。元々、義経は直轄軍を持っていません。彼の主力はせいぜい藤原氏から借りて来た郎党ぐらいです。義経が戦地に近い豪族たちにネゴシエーションを仕掛けたのは、単純に自分が使える兵力が少なかったからです。彼らは平家を倒すべく義経に協力します。ザックリ言うと、平家は彼らのような豪族に日頃から無体な態度を取っていたので、嫌われていたのです。ですから進んで義経に協力しました。呉座氏の指摘によると、屋島の戦いの際、頼朝は義経を別動隊として範頼の負担軽減に利用しようとしたのですが、義経は電撃的に屋島を落としてしまったのだとか。頼朝はあくまでも範頼の軍団に勝たせたかった。しかし義経は好機到来とばかりに勝ってしまう。その結果、恩賞は坂東御家人たちでなく在地の豪族たちに与えなければならなくなりました。板東武者たちは当然恩賞目当てで参加したはずです。しかし彼らが望むような恩賞を頼朝は与えることが出来ませんでした。頼朝の思惑は大いに外れ、彼の権威も傷付いたことでしょう。こうして二人の運命が少しずつズレ始めます。
後に謀叛を企てた義経は、自分が集めた兵や豪族に期待をかけたのですが、残念ながら彼らは手を貸しませんでした。何故でしょう?彼らはあくまでも平家憎しで協力したに過ぎません。頼朝に盾ついて、さほど縁のない義経に組して命を散らすなどバカなことは出来ないのです。義経の大きな誤算でした。
頼朝の思惑
頼朝は平家を持久戦に持ち込んで、講和も含めて考えていたようです。平家が生き残っても良かったのです。極端に言えば、天下を平家と二分するような状況になっても構わないということです。何故でしょう?一番の理由は平家を追い詰めたくなかったということです。ご存じのように、平家は安徳天皇と三種の神器を擁しています。頼朝は神器と帝を無傷で取り返すことで、後白河法皇から政治的に有利な条件を勝ち取ろうとしていたのです。ですから頼朝は、再三に亘って司令官である範頼にこの件を念押ししています。にもかかわらず、義経は短期決戦を挑み、平家もろとも神器も帝も海へ沈めてしまいます。壇ノ浦の詳報を聞いた頼朝の心中は、果たしてどんなものだったでしょうか?頼朝の思惑はこうして修正を余儀なくされます。法皇にアドバンテージを取られてしまった感があります。義経は戦闘や戦術には無類の強さを発揮したのですが、政治的センスはゼロだったと断じざるを得ません。
義経謀叛
頼朝ブラザーズ決裂の理由は、一般には検非違使の無断任官だと言われています。それは本当なんでしょうか?実際の義経は、検非違使に任官したまま、五位に昇進し、「貴族」に迎えられています。義経がいくら後白河法皇の覚えがめでたいとはいえ、頼朝の許しなく任官はおろか、五位の位を得ることなど可能なのでしょうか?無理ですね。三種の神器を失ったとはいえ、平家を滅ぼした義経の声望は都で大きくなるばかり。そんな義経を頼朝もむげには扱えません。しかし武力を持った義経を、法皇の近くに置くのは得策ではありません。法皇は有能な義経に、京都の治安維持を任せたかったに違いありません。そのために手元に置いておきたいと考えたのだと思います。後白河法皇は頼朝から「日本国第一の大天狗」などと揶揄されているため、先入観を生んでしまい、策略を弄する人物と思われがちです。しかし実際は、
後白河の行動を細かく検討してみると、長期的視野に基づく戦略的な思考を見出すことは全然できない。判断が常に場当たり的で、ほとんどが裏目に出ている。にもかかわらず生き残れたのは、単に彼が至尊の地位にいたからにすぎない
とも考えられないでしょうか?法皇が義経を手放したくなかったのは、兄弟の仲を裂きたかったわけではないでしょう。この時点で平家はまだ滅んでいません。法皇は平家からの講和の要求を突っぱねます。平家が憎くてたまらないのです。源氏の軍事力を削ることが、果たして当時の法皇にとって得策だったかどうか。では、頼朝が激怒した本当の理由は何だったのでしょう?
頼朝は義経を京都から連れ出すためにある秘策を用意します。義経を伊予守に推薦するというものです。国守に任ずれば検非違使と兼務することは出来ません。伊予守は播磨守と並ぶ最高位の受領です。普通に考えたら義経は京都を離れて任地へ向かうはず。頼朝なりに弟を何とか身の立つようにしてやろうと考えたんでしょうね。彼の気持ちは最高位の受領に推薦していることから推察できますね。ところが義経には兄の気持ちが通じません。検非違使に任官したまま伊予守を受け、都を離れることはしませんでした。ルール違反ですね。義経はさらに頼朝を怒らせます。義経はお尋ね者の叔父行家を匿ったのです。行家は何かと頼朝に歯向かっていましたから、義経の武力を頼朝との対立に利用しようとしたのですね。義経は叔父が頼朝から追われていることを知った上で匿いました。これで最早二人が融和する余地は無くなりました。こうして日本史上最も有名な兄弟喧嘩が始まります。その顛末は本文の目的ではありませんので、残念ながら割愛させて頂きます。
兄弟といえども…
頼朝は平家滅亡を必ずしも意図していませんでした。彼は最後まで政治的な人物だったのです。他者から政治権力を奪いさえすれば良かったのです。板東が中心となって政治を行う新しい政治形態を作る。それが頼朝を含む板東武者の願いでした。しかし義経は政治を一切解さず、自分の存在理由を平家打倒に求め、愚直に実行しました。二人は求める物が違ったんですね。兄は国家のグランドデザイン、弟は自らの存在理由。腹違いとはいえ、二人は義朝の血を引く者。しかし二人の兄弟の間には絶対に交わらない宿命があったのです。頼朝の作った鎌倉幕府を倒した足利尊氏、直義兄弟。皮肉にもこの二人の間にも決して重なり合うことの無い運命がありました。歴史は例え兄弟であっても、一旦敵となれば容赦ない定めを与えます。私たちが歴史に微笑ましい兄弟像を見るのは、豊臣兄弟の出現を待たねばなりません。兄弟と言えど、仲が良いと思うのは単なる固定観念に過ぎないのです。日本の歴史は、私たちにその厳しい現実を教えてくれているようです。
おしまい
参考文献:呉座勇一著「陰謀の日本中世史」(角川新書)
同「頼朝と義時 武家政権の誕生」(講談社現代新書)