反芻3子どもの「なんで?」に「なんでだろう?」とこたえる育児(仮名)
先週、絵描きと先生の咳で大変だった。
我が家は絵描きを筆頭にまあまあなアレルギー体質だ。絵描きはエピペン持ちの食物アレルギー、先生は喘息気味。これも私の懺悔の一つなのでまた別の機会に書きたい。
さて、既に消化されてしまった感があるが、もう一度口に戻してよく噛んでみたい。
子どもから「なんで?」攻撃を受けたことはないだろうか。
私はある。生半可な気持ちと知識で応戦すると無傷では帰れない。最終的には言葉に詰まり、濁して逃げるか、有無を言わせぬ空気を出して終わりにするしかない。無知な自分、大人げない自分をまざまざと露呈させられ「自分てこんなダメな人間だったんだ・・」と絶望を味わう。
「なんでだろう?」はそんな攻撃をかわす方法だ。(違う)
パターン①
(先生)りんご食べたい!(※)
(私)りんご食べたいね~でももうないよ
(先生)なんで?
(私)キミが食べたからだよ
(先生)なんで?
(私)最後の一個だったからだよ。
(先生)なんで?
(私の心の声)・・・(何をお知りになりたいんですか)
(先生)りんご食べたい!!(ヒートアップして※に戻る)
パターン②
(私)りんご食べたいね~でももうないよ
(先生)なんで?
(私)なんでだろう?
(先生)・・・あ!○○(自分の名前)が食べちゃったから?(りんごみたいな丸い顔がニヤニヤして答える)
(私)そうそう!食べちゃったからないよ。
(先生)なんで?
(突っ込みたくなる気持ちを押さえて私)なんでだろう?
(先生)・・・あ!○○がりんご大好きでいっぱい食べちゃったから?(りんご顔は自分に陶酔している)
(私)○○はりんご大好きだもんね~。
(先生)うん!○○、みかんも好きだよ!
(それはよく存じ上げておりますが私)そっか~みかんも好きだね~。
(先生)うん、みかん食べたい!
以下繰り返し
しょうもない実例しか出てこなくて悔しい。
先生と私の今朝の会話だ。この季節は果物中毒の先生と毎朝こんな不毛な会話をしている。
いや、不毛なんて言っちゃいけない。
分析していこう。
パターン①は先生のなんで?に私が真面目に回答している。
こちらが提示した答えに納得できないのか、反射的に「なんで」と言ってしまう病なのか、先生のなんで?は止まらない。
先生は私を論破したいわけでも、りんごがない理由を知りたいわけででもない。(と思う)
お互い良いことがなく会話を終了せざるを得ない。
パターン②はマネで返した。
先生の「なんで?」に「なんでだろう?」と共感し受け止めた。
そして先生は私の「なんでだろう?」に対して、自分なりに考えて答えている。
「・・・あ!」の部分だ。
これが「なんでだろう?」で返す最大の狙いだ。
特に7才未満の子どもは知識を与えるより、自分で考えた答えを大人に受け止めてもらうことが大切だと遠藤さんは仰っていた。(気がする)
当時はそんなものか~と深く考えていなかったが、最近になってこれはめちゃくちゃ猛烈ハイパーミラクルスプラッシュ(語彙・・)に重大案件ではなかろうかと感じている。
というのも自分を含め、何かを観察し自分の頭で考えて判断、行動できる大人は案外少ないように思う。それ故にいろんな外的内的問題が起きているように感じる。
今の教育機関の仕組みの問題もあるかもしれない。
けどそれ以前に子どもと接してきた大人の姿勢も影響しているのかもしれない。
自分で考えて、自分で決められる大人になってほしい。
無垢な子どもにいろいろと手取り足取り教えたくなるが、母親は子どもへのインプットをやめて、子どもからのアウトプットの受け入れに徹したい。
何でもいいから自分の出した答えを受け止めてもらえると、子どもも満足そうに見える。
だから私は今日も「なんでだろう」とこたえる。
絵描きと妖精らは「ああお母さんには何を聞いてもダメだ、私が教えてあげなくちゃ!」となりつつあり、アインシュタインもビックリな理論を彼女らからご教授頂く日々である。
ありのままの無知な母さんでいいんだ・・(多分ダメだ)
子どもに正しい知識を供給しなければ、という強迫観念から私は解放された。
そもそも万人が何時も賛同する正しい知識なんてこの世にない。(言い訳)
なにより、子どもとの会話が楽しくなった。
彼らから出てくる言葉や考え、想像の世界は本当に面白いのだ。
しかし子どものする事、言うこと何でもアリってわけじゃない。
「ありのままを受け止め」つつ「マネ・指示・労い」は生活の場面で使い分けが必要だ。
続く(本題を忘れてしまいそうだ)