神原月人
第9回ネット小説大賞を受賞した『絶望オムライス』が、2023年5月31日に刊行となります。 受賞作を第一部とし、残り四部を書き下ろしました。 【目次】 第一部:絶望オムライス 第二部:アノ街ーノ天国 第三部:女優の演技メシ 第四部:自立プリン 第五部:「小料理 絶」の希望
第9回ネット小説大賞を受賞した『絶望オムライス』が『小料理屋「絶」の縁起メシ』と改題し、宝島社文庫より刊行されます。 第9回ネット小説大賞受賞作! かつて自分を救ってくれた思い出のオムライスを探していたタクは、妙ママが切り盛りする“縁起メシ”が人気の小料理屋「絶」に辿り着く。 金運上昇つくねの黄金焼き、幸せのサンドウィッチ、縁を取りもつ鶏のもつ煮、一人立ちの自立プリン、そしてタクの作る絶望オムライス――。 これは小料理屋「絶」で繰り広げられる明日への希望の物語。 予
じいちゃんは病院を抜け出せるような体調ではなかったので、判決期日は、ぼくひとりで傍聴に訪れた。 「森保由布子を控訴人とする、遺言無効確認等請求事件の判決を言い渡す」 大阪高等裁判所の法廷のいちばん高い所に三人の裁判官が座っており、原告席には柏木弁護士と森保おばさんが座っていた。 「主文」 裁判官の朗々とした声が響く中、地元の記者たちは小ぶりのメモ用紙にペンを走らせている。 「一、原判決を取り消す。二、控訴人と被控訴人伸太郎との間において、亡森保伸和が平成二十一年三月九日
病院のベッドの上で、柏木弁護士から第一審敗訴の報告を受けた。 ここでも科捜研出身の鑑定士の鑑定書が物を言ったようだ。 私の種々の鑑定は、弁護士の要請による利害に立ったものであるのに対して、警察上がりの鑑定士のものは客観的であるはずだ、との理解が強く働いたのだろう。 鑑定書の内容が正確かつ適切であるかどうかは、審理を担当した裁判官にはさしたる関心事ではなかったようだ。 当然ながら、由布子夫人は判決を不服として控訴した。次が滝二夫妻にとって文字通り最後の機会になるが、先
新年を迎えて間もなく、春斗にせっつかれて検診を受けたが、結果は最悪だった。 末期の肝臓癌である、との検査結果はひた隠しにして家族の誰にも言わずにおいたが、入院生活を強いられるようになった。 偽造された遺言書によって世界がひっくり返るように、淡々と病状を説明する医師の言葉は、平穏な日々を粉々に破壊した。 ほんの数ヵ月で世界は一変したが、老いた頭はなかなか事実を受け入れようとはせず、鏡に映るひどく痩せこけた老人の姿が自分のものであると認めるには若干の時間を必要とした。孫の
春斗は、うんざり顔をまったく隠さぬままに帰宅した。 大方、母から「夕飯は勝手に食べといて」との一報を受けたのだろう。細かい事情は知らされずとも、その連絡ひとつで祖父と母がまたなにかしら揉めた、と即座に理解したようだ。 紛争の絶えない家庭の永世中立国はいつだってどちらに肩入れすることはなく、いたって冷静に事の推移を観察するだけだ。 「じいちゃん、また戦争したの?」 誰と、という言葉はまったく省略されていた。 「いつものことだ。大したことではない」 春斗は応接室のテーブ
京都を訪れてからゆうに一週間以上が過ぎたが、第二遺言書が偽造であることを立証するための鑑定作業は遅々として進まなかった。ひとまず、これまで相互に提出された鑑定書に検討を加えることから着手したが、どうにも身体が怠く、すぐ疲れを感じる体たらくで、往時の集中力の半分も保てなかった。 しかし、仕事がはかどらない最大の原因は、身内にいる敵の存在であろうと思う。次男の単身赴任先である九州に逃亡した義娘は、一週間以上ものリフレッシュ休暇を経て傾いた我が家に舞い戻ると、口うるささは以前に
前回の裁判で提出された鑑定書類一式と第一遺言書の原本、第二遺言書の写しをお土産に帰路に就いた。 春斗は新幹線の車中で、京都駅ビル内のお土産小路で買い込んだ牛タン弁当を食べ終え、コーラをお供にポッキーをついばんでいた。旅先が仙台なら分かるが、ここは京都である。なぜわざわざ牛タンを選んだのかと問うと、「今日はそういう気分なの」と一蹴された。 ビールといなり寿司の組み合わせだって京都感ないじゃん、との反論が即座に飛んできたが、春斗が暗に咎めているのは、医者から止められている酒
弁護士との約束の時間が迫っていたので、東大路通りを北上していた黒塗りのタクシーを呼び止めた。 弁護士事務所の所在地をメモした紙切れを運転手に示すと、 「ああ、丸太町の駅のすぐ近くですわ」 と言って、タクシーは静かに走り出した。 我が家の建て替えを考えているからか、窓越しに京都の町の景観を眺めていると、解体中の古家ばかりが目についた。古家の多くは単独では建っておらず、隣の家と側面の壁がくっついて建っており、お互いにもたれかかって、支え合っているような印象を受けた。 信
翌朝、新大阪行きの新幹線の車中で、春斗は文庫本を読み耽っていた。小一時間ほど活字を追ったせいで乗り物酔いしたらしく、読みかけの文庫本を閉じ、リクライニングシートを限界まで倒した。 いったい誰に似たのか、つくづく酔いには滅法弱い体質であるらしい。 「お茶でも飲むか」 「うん、欲しい」 昨夜、みどりの窓口で指定席券を購入したものの、春斗が朝寝坊したおかげで新幹線に乗り込む前に飲食物を買い込む余裕がなかった。土曜日は学校が休みだから、ぼくも京都に付いていく、と前日ごねたわりに
その日の夜は、我が家の斜向かいにある焼鳥屋『鳥まさ』で夕食をとった。かれこれ三十年以上も通っている馴染みの店だ。 常連客で賑わう店内に入ると、L字型のカウンター席の端っこに案内された。七席あるカウンター席の中でもレジ横の席はついつい長居してしまう居心地の良さがあり、気さくな店主夫婦とちょっとした雑談もできる特等席である。 「ぼく、カウンターで食べるのはじめてだ」 鳥わさと鮟肝をつまみに熱燗を呷っていると、春斗がさも感心した様子で呟いた。古希をとうに過ぎた店主夫婦と、その
あらすじ第一話 端的に言って、我が家は傾いていた。 経済的にもそうであるが、主に物理的な意味において傾きは顕著であり、ピサの斜塔ほどの遠目にも明らかな斜度ではないものの、フローリングの床にビー玉を置けば、即座に転がってゆく程度には傾いている。 東京都目黒区にある、名ばかりは自由の地に移り住んで半世紀近く経ち、長らく筆跡鑑定事務所兼自宅としての用を担っていた木造家屋も、家主同様にそろそろ寿命が迫っていた。 二階の風呂場から階下のキッチンへの水漏れはしょっちゅうで、どこから
エアコンが生温い空気を吐き出す中、学習机の上に教科書を開いているフリをした。 中学最後の夏は、偽装引きこもり。 高校最後の夏は、偽装受験生として過ごした。 嘘ばっかりの人生だ。 しかしながら、夏休み中はそれこそ執筆に没頭した。 ……などということは一切ない。縦書きのワードファイルを開いても、真っ白のページに書くべき内容が何も思いつかなかった。 一文字たりとも書き出せなかった。 どうしようもないので、朝から自室にこもって篠原さんからのメールを改めて読み返してみる
沙梨先生の自宅へ通っていた頃は、ただその建物を見上げ、素通りしていただけの文藝ビルであったが、今日は正式な用事があってここに来た。 一昨日、見知らぬ番号から電話がかかってきた。 ふだん自分の携帯が鳴ることなど滅多にない。電話をかけてくるとしたら沙梨先生か、暇を持て余した倫也だけ。だが、ほんの数日前に沙梨先生とは没交渉になったばかりだ。案外に強情なところのある先生が前言を翻し、国交を復活させるなど有り得そうもない。 10コール以上も鳴り続けたので、なにか重要な要件である
ふと目覚めると、時刻はすでに夕方近くであった。 沙梨先生との別れ際に投げかけられた問いについて、あれこれ考えるのに疲れ果てて、学習机に突っ伏したまま眠ってしまったらしい。 おかげで両腕が痺れるように重い。身体を起こして椅子にもたれかかると、学習机の脇に置いたスマートフォンが薄暗い光を発しているのが見えた。 充電不足でバッテリーが切れかかっている、というサインである。 いつから寝入ってしまったのかは分からないが、時間の長さだけならよく寝たはずなのに、疲れは取れるどころ
期末テスト後、図書館内にある閲覧室で個人面談が行われた。 面談が行われる際は、クラス担任と生徒以外の図書館への立ち入りが禁じられることもあり、小峰先生とぼく以外の姿はなかった。 「なあ、藤岡。どうにかして荻原の脳ミソをバージョンアップさせてくれや」 冷房が利きすぎてむしろ寒いぐらいの温度であるのに、小峰先生はいかにも暑そうだ。ぱたぱたと手を扇いで首筋に風を送っている。 「それは無理です」 ぼくの一学期の成績表が卓上に置かれているが、個人面談開始の第一声はぼくの成績云々
中学最後の夏休みを一か月前に控え、ぼくは一足先にプチ夏休みに突入した。 小峰先生の言いつけ通り、二週間ほど自宅に引きこもった。 なぜ期末試験直前のこの時期に、二週間も学校を休まねばならないのか。ぼくの曖昧な説明では両親にまったく理解してもらえなかったけれど、クラス担任の小峰先生の家庭訪問が信頼の証となったのか、はたまた東大発のプロジェクトというパッと見それっぽい看板のおかげか、わりとすんなり引きこもり生活を許された。 ぼくは嫌気の差していた部活を合法的に辞めるため。