傾国老人 第五話
前回の裁判で提出された鑑定書類一式と第一遺言書の原本、第二遺言書の写しをお土産に帰路に就いた。
春斗は新幹線の車中で、京都駅ビル内のお土産小路で買い込んだ牛タン弁当を食べ終え、コーラをお供にポッキーをついばんでいた。旅先が仙台なら分かるが、ここは京都である。なぜわざわざ牛タンを選んだのかと問うと、「今日はそういう気分なの」と一蹴された。
ビールといなり寿司の組み合わせだって京都感ないじゃん、との反論が即座に飛んできたが、春斗が暗に咎めているのは、医者から止められている酒の方だろう。
「今日はそういう気分なんだよ」
春斗の言い草をそっくりそのまま返すと、ポッキーを咥えた孫はぷいっとそっぽを向いた。禁酒せねばならないのは承知の上だが、せめてこんな日ぐらいはしっぽりと酒に酔いたい気分なのである。
二十数時間ぶりのビールは五臓六腑に染み渡り過ぎて、胃だか、心臓だか肝臓だかが突然のアルコール供給にビックリしたらしく、妙な鈍痛を覚えた。
気分良く酔えそうにないのは、手元にある科捜研出身者の鑑定書が原因だろう。酒のツマミとしては最悪の書類だ。ほんのり甘めのいなり寿司をかじりながら鑑定書を睨んでいると、
「じいちゃんって科捜研嫌いなの?」
という質問が飛んできた。春斗は窓側の席に浅く座り、トンネルの深い闇に包まれた窓の外をぼんやりと眺めていた。
「なんとも言えんな。商売敵でもあり、商売の種でもあるからな」
山口県警では数字の筆跡鑑定が出来ないということで、山口地裁の裁判官から直接に鑑定の依頼があった。大阪府警の一警察署から、アルファベットの筆跡鑑定が出来ないということで鑑定依頼を受けたこともある。
聞くところによると、科捜研内部では縦書き筆跡と横書き筆跡とでは、原則として比較できないものと認識されているらしい。
数字、アルファベット、縦書きと横書きとの相互性は、筆跡鑑定において、いつでも起こりうる鑑定条件であるのだが、これがいきなり「お手上げ」というのではお話になるまい。
科捜研技官の筆跡鑑定に関わる技能は相変わらず個人能力として分立しており、鑑定は経験と勘が第一、という旧態依然の認識がいまだに改められていないことを示す象徴的なエピソードである。
「じいちゃんって、なんで筆跡鑑定士になったの?」
「成り行きだな。鑑定士になるのに資格は必要なかったからな」
あまり触れられたくない部分だったので、適当に誤魔化したが、窓の外に視線を向けたままの春斗は、それ以上詮索してくる様子はなかった。
「じいちゃんが森保の長男から鑑定依頼を受けたら、どうしてた?」
聞きたいのは、「じいちゃんなら黒を白にしてみせたか」ということだろう。換言すれば「依頼人の望む通りの鑑定書を書いたか」という意味だ。
「黒はどこまで行っても黒だからな。真実がそうと思えば、その通りの鑑定を出すまでだ」
鑑定業も一種のサービスである以上、依頼人の望む通りの鑑定書を書く鑑定人が一定数存在することは確かだが、真実を捻じ曲げた先に行きつく果ては依頼人の不利益だけだ。
依頼人の望む通りに鑑定書を書くことは、一見すると依頼人に寄り添っているように思えるが、多くの場合、そのような鑑定書から困った事態が生じる。誤った鑑定書を頼って裁判に踏み切り、長い時間と費用をかけた挙句に敗訴し、損害賠償の責任まで受けることになったら目も当てられない。そういう人をたくさん見てきた。
「高い鑑定料を支払ったのに、意図したものと違う鑑定書を書きやがって……って怒る依頼人っていないの」
今回のケースで言えば、長男側が「この遺言書は偽物ではない」というお墨付きを貰いたかったのに、依頼人の意に反して「この遺言書は偽物です」という鑑定結果を出したら、依頼人は怒り出したりしないのか、という疑問である。
「そういう場合は事前調査料金を負担して頂き、鑑定書は書かずに打ち切りになることが多い」
「ふーん、そうなんだ。鑑定費用っていくらぐらいするものなの」
「私の場合、事前調査で三万円、本鑑定で二十万から六十万円ぐらいが相場だな」
筆跡鑑定にかかる費用は、京友禅の着物ほどピンキリではなく、私の事務所では価格帯は五通りしかない。
事前調査……三万円/鑑定前に調査をして、鑑定結果の方向性を口頭(電話など)で伝える。
所見書……四万円/事前調査の結果を簡単な文面にして提出。具体的な文字の異同の説明はつかない。
簡易鑑定書……十~十五万円/四~五文字を具体的に鑑定する。鑑定書の内容が簡易になる。
本鑑定……二十~六十万円/裁判などに用いる本格的な鑑定書。
反論書……四十~八十万円/誤った鑑定書に反論し、併せて正しい鑑定を行う。
「……高っ! 鑑定書ってそんなに高いの?」
春斗が頓狂な声を上げた。学校帰りのコンビニで買い食いする金額はせいぜい数百円、文庫本ならば千円足らずの金銭感覚の世界で生きている高校生からすれば、究極的には一枚、多くても数枚ぽっちの鑑定書にウン十万円も支払うなど到底信じられないのだろう。
「鑑定書一枚で他人の人生が百八十度変わってしまう可能性のある代物だからな。調査にも数週間から一ヵ月ぐらいの時間はかかる。専門家に依頼すれば、どうしたって金額はかかるものだ」
鑑定を通じて他人の人生を背負うものであるからこそやりがいがあるし、だからこそ真実を追求せねばならない。
質問に応じる合間に缶ビールをすっかり飲み干してしまったが、根掘り葉掘りと仕事の話を聞かれているからか、どうしたって酔えそうになかった。
「勝訴すれば鑑定にかかった費用は相手方の負担になるがな」
「訴訟費用って、負けた側が払うんだっけ。じゃあ裁判に勝てば、費用負担はゼロってことだよね」
どうにも春斗は勘違いしているらしい。
民事訴訟法では「訴訟費用は敗訴の当事者の負担とする」と定めているが、弁護士に払った着手金や報酬金もすべて訴訟費用として敗訴した相手からぶん取れると考えているとすれば、それは誤りだ。
訴えを起こすときに訴状に貼る印紙代、その訴訟に出頭した証人、鑑定人などに支払う旅費、日当、鑑定料などを訴訟実費といい、それらを相手側に負担させることは出来るが、弁護士費用は訴訟費用に入らないため、相手方に負担させることは出来ない。
「弁護士費用は裁判に勝とうが負けようが払うぞ。専門家の鑑定費用は裁判に勝てば、相手に負担させられるが」
きっちり訂正すると、春斗が目を丸くした。
どうやら初耳であったらしい。
「そうなの?」
「けっこう勘違いしている人は多いがな」
通路に売り子が通りかからないかと視線を巡らせてみたが、ビールのお代わりがやってくる気配はなく、新幹線はとっくに名古屋駅を通過していた。
「全自動筆跡鑑定マシーンみたいなのってないの? 警察官とか科捜研が主役のドラマで、よくDNA鑑定とかしてるじゃん。ホシのDNAと九十九%一致しました、みたいなノリで」
いつぞやの推理ドラマで、警察の科捜研には筆跡鑑定システムなるものがあり、二、三文字をこの機械にかければ、本人自筆の可能性が何パーセントであるのかと直ちに鑑定できる、というシーンを見た記憶があるという。
「そんなものはないし、将来的にも存在しないだろうな」
「なんで?」
「仮にそんなシステムを作ろうとすれば、国民一人一人の筆跡サンプルをこと細かにコンピューターに入力し、あらゆる例外ケースにも対応できるようにしなくてはならない。たった一人の対象にも、最低千件ぐらいの筆跡サンプルを入手し、点画、筆順、筆癖、配列、言語力など多角的な分析を加えて入力していかなくてはならないから、それだけで軽く一年はかかるだろう。国民全体だったら一億年、百人が一斉にこの入力作業に取り掛かっても、ざっと百万年ぐらいはかかる計算になるな」
「要するに、作るのは無理ってこと?」
「もし作ろうとしたら、途方もないものだってことだ」
春斗はポッキーをついばみながら、
「筆跡鑑定って、たいへんな仕事だね」
他人事のように呟いた。その言葉尻には、「ぼくには無理でーす」という感想が続いているような気がした。
「どうした、今日はやけにいろいろ聞いてくるな」
京都までの小旅行に同行するうち、よもや筆跡鑑定業の奥深さに触れ、祖父を今まで以上に尊敬する気分になったのかと思いきや、どうやらそれは違ったらしい。
「じいちゃんが仕事してるとこ、はじめて見たしね。事務所はじいちゃんの遊び場で、鑑定業は名ばかりの道楽だと思ってたもん」
春斗は、いけしゃあしゃあとのたまった。
一切悪気はないらしいが、一言ならず、二言ほどは余計だった。
そんなところだけ忠実に隔世遺伝するとは世も末である。
しかして末世の相手が孫であろうと、売られた喧嘩は当然のように買わねばならぬ。空の缶ビールをべこりと潰しながら、頭の中で孫に対する反撃材料を考えた。
「筆跡鑑定に興味があるなら、小説の題材にしたっていいんだぞ」
声を低めて冷やかすと、春斗は血相を変えてこちらに振り向いた。
「はあ? なんで小説?」
いつもぼそぼそと喋るのに、今日は二倍増しぐらいに声が大きい。
「なりたいんじゃないのか」
「べつに……」
図星だったのか、新横浜駅を過ぎ、品川駅に着くまでの間、不貞腐れた春斗がそれ以上話しかけてくることはなかった。