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傾国老人 第二話

 その日の夜は、我が家の斜向かいにある焼鳥屋『鳥まさ』で夕食をとった。かれこれ三十年以上も通っている馴染みの店だ。
 常連客で賑わう店内に入ると、L字型のカウンター席の端っこに案内された。七席あるカウンター席の中でもレジ横の席はついつい長居してしまう居心地の良さがあり、気さくな店主夫婦とちょっとした雑談もできる特等席である。
「ぼく、カウンターで食べるのはじめてだ」
 鳥わさと鮟肝をつまみに熱燗を呷っていると、春斗がさも感心した様子で呟いた。古希をとうに過ぎた店主夫婦と、その息子たちはきびきびと立ち働いており、焼き台から漂う香ばしい匂いはなんともいえず食欲を誘った。
「あいよ、坊ちゃん。皮とねぎま、はつと砂肝とぎんなん」
 白髪の店主がにこにこと人好きのする笑みを浮かべ、カウンター越しに焼き鳥を盛った平皿を春斗に手渡した。春斗は恭しく両手で皿を受け取ると、好物のねぎまから食べ始めた。
「なんかいつもより美味しい気がする」
 もぐもぐ咀嚼しながら春斗がお世辞めいた感想を口にすると、
「ここじゃ出来立てだけど、テーブル席だと持っていく間にすこし冷めちまうからね」
 店主が朗らかに応じた。
「じいちゃん、いらないの?」
 ぎんなんに手をつけながら春斗がこちらを向いた。小柄ながら食べ盛りの高校生の食欲はさすがに旺盛で、胆嚢癌の手術以降、油っぽいものを受けつけなくなった私とは食べるペースからして大違いだった。小うるさい主治医には、長生きしたかったら禁酒せよ、と命じられていたが、忠告とは裏腹に酒ばかり進む。
「酒だけで大丈夫だよ」
 徳利を傾けると、中身はすっかり無くなっていた。
「先生、お酒のお代わりどうします?」
 店主夫人は席の後ろから空になった徳利を回収した。
 先生と呼ばれるほどたいそうな身分ではないが、筆跡鑑定業を営んでいるからか、この店に来ると、先生と呼ばれることが多い。
「同じのをもう一合だけ」
 日本酒を追加すると、春斗が心配そうな目を向けてきた。
「まだ飲むの? 医者に止められているんじゃないの」
 と言いたげな視線であった。
「酒は術後の身体に響くから、なるべく止めろ。じゃないと、あと十年も生きられませんよ、と言われたがね」
 店主夫人が卓上にそっと徳利を置いた。
 早速、お猪口に忘却の甘い水を手酌で注ぐ。
「酒も飲めないのに、あと十年も生きていたくはないね」
 杯を干しながら、誰に言うともなく独り言のように呟くと、カウンター越しの店主は同意するかのように大きく頷いた。
「そういうもの?」
 春斗がわずかに首を傾げた。ろくに酒の味も分からぬ小僧っ子に、老い先短い老人じじい心境きもちなど、まだ分かるまい。
「ああ、そういうものだよ」
 胆嚢癌の手術後、身体は妙に疲れやすくなった。
 今まで何ともなかった日常の作業も休み休みでないとこなせなくなっている。頭はまだはっきりしているつもりだが、老いの足跡は確実に忍び寄っている。だが、遺言書を書こうなどとまではさすがに思わない。欲深く十年とは言わずも、あと数年ぐらいならば平気でいられる気もする。
「焼きおにぎり、お待たせっ!」
 店主の息子の特別サービスであろうか、焼きおにぎりは通常のおにぎりの三倍はありそうな大きさであった。手掴みでは明らかに食べづらそうだ。予想外のサイズに当惑したのか、春斗はありがた迷惑そうな苦笑いを浮かべつつ会釈し、皿を両手で受け取った。
「じいちゃん、食べない?」
 聞こえないふりをして、酒をちびちびと飲む。
「じいちゃん、半分食べてよ」
 春斗の声にわずかな怒気が混じっていたが、店内の賑わいのせいで聞こえないことにしておく。ボケたふりと聞こえないふりが出来るので、齢を重ねるのも悪いばかりではない。
「そういう大人げないことするから、母さんが怒るんだよ」
 巨大な焼きおにぎりを箸で割り、適量を口に運んではもぐもぐと咀嚼しながら、ジンジャエールで流し込む。いかにも事務的な光景は、食事というより、皿を空にするための流れ作業に近い気がした。
 嘆息しながら焼きおにぎりを頬張り続ける姿に、ジョッキ片手にガードレール下の飲み屋で黄昏れる中年のサラリーマンの如き悲哀がありありと滲み出ていた。
「まあまあ、そう怒りなさんな。飲みなさいよ」
 ぷりぷり怒っている孫の姿があまりに愛しいので、からかいついでにお猪口を寄せる。顰め面の春斗は杯を乱暴に引っ掴むと、毒を喰らうがごとくに一気に飲み干した。
「あ、本当に飲んだ」
 一瞬にして顔が真っ赤になり、お猪口をテーブルの上に取り落とした。ばたりと卓上に倒れ込み、性質の悪い酔客よろしく、むにゃむにゃと何ごとかを呟いている。
「坊ちゃん、お水! ほらっ、お水飲んで!」
 慌てた店主夫人が強引に春斗を起こすと、無理やりに冷たい水を飲ませた。春斗はグラスを両手で持ちながら、上機嫌の様子でゆらゆらと身体を左右に揺すっている。
「あーいうのをさー、お家そーどーって言うんでしょ」
 けたけた笑いながら、春斗はレジ側へ身体を大きく傾けた。
「家の傾きかたにも、いろいろあるんだねぇ」
 グラスを割ったり、中身をぶちまけたりする前に春斗の手から取り上げた。春斗はわずかに抵抗したが、そのまま前のめりになるとテーブルに突っ伏し、静かな寝息を立て始めた。
「駄目ですよ、先生。未成年に飲ませちゃあ」
 店主夫人がテーブルを布巾で拭きながら、薄く笑った。
「いやはや面目ない。お食事中、失礼しました」
 春斗の横に並んで座っている客たちに向かって軽く頭を下げた。年嵩の常連客たちは、ひらひらと手を振るのみで、面白い出し物を見たとばかりの反応を示した。
「坊ちゃんもだいぶストレス溜まっているみたいですね。若いのに、ご苦労なことで」
 店主は焼き魚に盛り付けをしながら、ははは、と笑った。

 会計を待つ間、食後のお茶を啜っていると、春斗がぜんまい仕掛けのロボットのように、むくりと起き上がった。
「起きたか、酔っぱらい」
「酔っ払いはじいちゃんでしょ」
 お猪口一杯の酒で悪酔いした孫の目が明らかに据わっている。
 反論する声も大きく、いつになく明瞭な響きであった。
「帰るぞ、酔っぱらい」
 椅子から立ち上がり、レジ横の壁に立て掛けていた杖を掴む。
 春斗は席に座ったままぐずぐずしており、椅子から立ち上がろうとする意思がないようである。
「コーラ飲みたい」
 春斗がぽつりと漏らすと、店主が瓶のコーラをコップに注いだ。
 満面の笑みを浮かべて春斗はコーラを飲んだ。
 会計はすでに終えていたので、店主にお代はいくらか、と目配せすると、店主はうっすらと微笑みながら首を左右に振った。
 半分ほど残った焼きおにぎりは、店主が握りなおして形を整え、アルミホイルに包んで持たせてくれた。
 閉店間際の店内に残る客はまばらで、ひと休みでもしているのか、店主の息子の姿は厨房内には見当たらなかった。
「どうも、ご馳走さまでした」
 店主夫婦に礼を言ってから退店すると、辺りはすっかり暗くなっていた。オレンジ色に淡く光る街灯の下、店主の息子が店裏の路地のベンチに腰掛けて、タバコを吹かしていた。
 店主の息子は私と春斗を認めると、おもむろに自販機に小銭を投入し、取り出し口からペットボトルのコーラを取り出した。
「はい、坊や。さっきコーラ飲みたいって言っていたよね」
 焼きおにぎりを包んだアルミホイルを手に持っていた春斗は、店主の息子からコーラを受け取ると、「あ、どうも」と会釈しつつ、曖昧な笑みを返した。
「今度から、ひとりでもカウンターにおいでよ。坊やなら、ツケで大丈夫だから」
 手に持っていたタバコを灰皿に押し付けると、店主の息子は親譲りの人好きのする笑みを湛えて、店へ戻っていった。
「お土産がいっぱいでよかったな。明日の朝食にでもすればいい」
「うん、そうだね」
 すっかり酔いが醒めたらしい春斗は、ペットボトルの蓋を開け、その場で三分の一程を飲んだ。
「なにごとも適量って大事だよね」
 げふっとゲップを漏らした春斗は、高校生らしからぬ妙に達観した様子で、遠くを見つめていた。

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